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健全なる異端、あるいは正統と異端の消滅(2)

 「健全なる異端、あるいは正統と異端の消滅(1)」の後、寄り道をしてしまい、続きの話が頓挫してしまいました。Blogのノートは年寄りの戯言に過ぎませんから、紆余曲折があって一向に構わないのですが、本道に立ち戻り、価値概念が入り込んでいると一般には解釈されている「正統と異端」の二分法的分類の話に戻りましょう。
 「仕分け」は私たちが「知る、わかる」ために必要な前提条項。その仕分けのためには、名詞、名辞といった言語-論理的な装置が不可欠です。表現し、伝達するための装置としての言語には私たちの様々な知恵が豊富に組み込まれていて、言語使用自体が世界を仕分けながら表現していると言っても大袈裟ではありません。言語に始まる分類学的精神は常識レベルでの分類システムを生み出し、遂にはリンネの分類学、さらに博物学に結実します。二分法、多分法と言った平面的な分類だけでなく、分類される項目は樹状(tree-like)に分岐し、遂には階層的(hierarchical)な構造にまで到達します。現在の私たちは世界を素粒子から始まる階層的な構造として捉えています。
 過去の歴史を暫し振り返るなら、哲学や思想の中での奇妙とも思える「あれか、これか」という対立構造と議論の方法が透けて見えてきます。人は戦うことによって歴史をつくってきましたが、戦いに明け暮れるのは生活世界だけでなく、哲学や思想の世界でも同様で、その戦術が「あれか、これか」方式であり、勝ち負けというやり方を使って正しい結論を得るという弱肉強食の世界を演出してきたのです。皮肉なことに、思想、哲学、そして宗教も、実は戦いの中で真や善を勝ち取り、勝利者になることに邁進してきたのです。知識を承認するとはその知識の獲得レースに勝つことなのです。
 ギリシャ哲学史を習うと必ず出てくるのが一元論、二元論、多元論といった区別で、その区別を基準に眺めると、最も洗練された理論が原子論で、その原子論は多元論。こじれた師弟関係にあったプラトンアリストテレスの哲学は、それぞれ観念論と実在論の違いとされ、イデアや数学に心奪われたプラトンと実証的な観察と論理分析のアリストテレスの対立が強調されました。中世の論争は実念論唯名論の間での、今ではピンボケの戦い。同じような戦いが唯物論と唯心論の間にも繰り広げられました。これも今では歴史のエピソードでしかありません。争いによって真偽が決着するというより、争いに疲れ、あるいは争いが意味がなかったという終結が圧倒的に多かったことは、「あれか、これか」という戦術がいつも有効ではなかったことを示しています。
 その戦術を有効にしたのが科学で、実験や観察という決着をつける方法でした。ですから、科学は哲学や思想以上に戦いの形式が鮮明です。ホイヘンスニュートンの間での光の粒子説と波動説の対立はその典型例で、その決着は二転、三転します。マトリックス力学と波動力学は戦いというより、同じ理論の別表現ということがわかり、量子力学の理論完成のスタートになりました。男と女の区別は科学どころではなく、現実の世界での戦いの主役です。長い男女関係の歴史の中で、性染色体の発見は性比の説明だけでなく、男女関係を一新したと言えます。さらに、「物体とエネルギー、物体と精神、ものと心」といった対立項目を挙げると、近代以降の科学の展開も「あれか、これか」の戦いの図式に従って、さらに、それだけでなく実験・観察という実証研究が加わって、決着をつけることを目標に探求されてきたことがわかります。
 異なる理論の対立と戦いによる探求のための要素の一つが仮説です。仮説がどのようなものかに応じて、価値判断が入ったものかどうかが決まるとなれば、仮説や仮定が価値判断を含むかどうかに依存することになります。科学理論であれば、仮説に価値が入るものというのはごく稀で、20世紀以降はまずありません。でも、それが科学理論ではなく、哲学、宗教、思想、倫理、心理となると話は違ってきます。そこでは価値が入るかどうかより、実証的な検証ができるかどうかの方が重要になってきます。ケインズ経済学とマルクス経済学の違いは仮説の違いとして表現できますを生む。プラトンの哲学とアリストテレスの哲学の違いも、彼らの哲学の仮説の違いに起因しています。進化論の有名な論争にフィッシャーとライトの論争がありますが、この戦いは仮説だけでなく、二人の個人的な恨みつらみにまで及んでいます。
 相対論と量子論ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は、それぞれ確かに対立する理論ですが、いずれが真でいずれが偽かという単純な「あれか、これか」で処理できず、両方の総合が模索されたものです。しかし、相対論と量子論の総合は未だできず、喫緊の課題となっています。
 最初に述べた異端審問あるいは異安心を思い起こして下さい。正統と異端の間を峻別し、正統と呼んだ方を守り、異端としたものを葬ることが宗教ではいまだに顕著です。異端を排除するだけでなく、自らの教説の中でも天国と地獄、あの世と俗世、聖と俗と言った二分法的区別を頑強に守り続けています。戦いの構図から平和の構図を見出し、「あれか、これか」の戦いが終わった時、平和が訪れるのでしょうか。人の思考形態は圧倒的に戦いの図式を好み、それに慣れ親しんでいるようです。
 宗教は人の生死に係わりながら、不思議なことに過度の単純化を望むものです。宗教はどれも劇的な効果を欲し、シエクスピアまがいのロマン主義の中で人々に語りかけます。そして、異なる宗派の間では「あれか、これか」の二者択一を私たちに迫るのです。二つの教義をミックスし、よりよい教義に修正し、それを実証的に確かめる、などと言うことは宗教にはあり得ないことです。これが単純化の一例です。宗教は経験に学ぶということをしません。経験に学ぶのは宗教家だけです。宗教は不完全、不十分、相対性、暫定性、局所性を認めません。宗教は超越的な神、超自然的な現象を導入して、神に対する経験的なものを認めない、不思議な体系です。自然科学とは両立しない存在が正に神なのです。さらに、どの宗教も自らの宗教教義の体系に誤りはないと誇ります。現在では絶対に誤らない教義体系があったとすれば、その体系に誤りがないことの証明が不可能な体系だとわかっていて、宗教はその意味で無矛盾な体系ではないことになります。
 私たちは相対的で、誤り得る体系しか知りません。宗教の教義体系は冷静にならなくてもエキセントリックなことに誰もが気づくのですが、誰もそれを話しません。聖域とされているのかも知れませんが、宗教はやはり不思議なシステム、組織をもち、その教義は納得できない主張を多く含んでいます。無神論者から見るなら、その最も不合理な主張とは、「神が存在する」ということです。
 価値判断や意見、評価を含む微妙な概念群を幾つか挙げてみましょう。これらはいずれも純粋に科学的な概念ではなく、科学的な要素を含むとはいえ、価値判断の入り込んだ、いわば不純な概念です。

生物多様性、生命の尊厳、文化遺産世界遺産、自然保護、健康、病気、種の絶滅、種の保存、気象、災害、保護、エネルギー

 さて、ほら話はこのくらいにして、二分法と価値判断の具体例を取り上げ、比較しておきましょう。
1アリストテレスの正常モデル
どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの正常モデルの考えです。アリストテレスの物理学は目的論に満ちています。彼は星も有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていました。内的な目的が重い対象を地球の中心へと引きつけます。重い対象はこれを自らの機能としてもっています。どんな対象にもその自然状態があり、その対象の不自然な状態から区別されます。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果です。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因です。したがって、自然の中に見られる変異は自然な状態からの偏向として説明されます。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象はみなそれぞれの本来の場所に存在することになります。ニュートンとそれ以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなりますが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能です。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もありません。力学での自然状態は力の働かない状態であり、慣性の法則がこれを表現しています。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていましたが、ニュートン以後の物理学では切り離されています。
このモデルは物理的なものだけではなく生物に対しても適用されます。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質からずれたものが正常でないものです。それら異常なものはたとえ出現しても選択され、支配的になることはありません。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えています。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎないという訳です。
2ダーウィンの変異モデル
アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィンの変異モデルです。彼は生物集団の中には常に変異が存在し、それが個体差として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で次第に多数を占めるようになるという、いわゆる自然選択(淘汰)説によって生物の進化を説明しました。この説明の出発点は変異の存在です。この変異、個体差には正常も異常もありません。あるのは個体間の差だけであり、この差が選択の原動力になっているのです。したがって、正常、異常とはある時点の集団の多数派、少数派に過ぎなく、本質的なものではないことになります。最初から「正常」、「異常」が固定されているのではなく、多数派と少数派の選択的な変化によって進化を説明するという方法は、正に民主主義の根幹を表していると過大に評価することもなされてきました。

このように見てくるとアリストテレスニュートンダーウィンの違いは歴然としています。では、私たちが現象を考える際、いずれのモデルで考えているのでしょうか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではニュートンダーウィン風に、私たち自身の身体的特徴、行動に関してはアリストテレス風に考えているのではないでしょうか。異常な行動は大抵の場合悪い、してはならない行動とさえ考えられています。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断からは中立かといったステレオタイプの問題ではないことが明らかだと思います。
 アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断です。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになります。この表現のどこにも価値判断など入っていません。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことです。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統をつくってきました。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存しています。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、価値判断とは独立した事柄なのです。

 寄り道から本来の道に戻ったかどうかもよくわからない話になったようですが、「あれか、これか」の戦術的な使われ方と「正常、異常」の二分法を使っての具体的な戦いの一例を挙げたつもりです。