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意志決定のプロセス:不確かな状況での選択

意志決定のプロセス:不確かな状況での選択
 何かを決める(難しく言えば、意思決定)プロセスはどのようなものか?「決まる」ことのプロセスは因果的プロセスを想像すれば済む。現象の推移や出来事の生起として理解される変化は「何かが決まっていく」プロセスである。科学はこの「決まるプロセス」を正確に計算し、表象し、説明しようとしてきた。決まるプロセスに選択、分岐といった状況はなく、線形に出来事が決まっていく。スタートからゴールまで一本道なのである。これが「決まる」ことの単純でわかりやすい構造である。
 一方、「何かを決める、誰かが決める」プロセスは決める主体(私たちを含む生物)の内的で主観的な意識と考えられてきた。「決まる」と異なる特徴は、決めるためには選択が必要で、いずれかを選ぶために決断をしなければならない点にある。スタートからゴールの間に分岐する可能性があり、いずれか一つを選び取っていかなければならない。それゆえ、「決める」プロセスは客観的に説明したり記述したりできるかどうか疑われてきた。だが、内的、主観的だから「決める」ことがわからないのだろうか?「決まる」内容も過程も経験できる(知ることができる)。だが、「決める」こと、つまり、「経験をつくる」ことを事前に、あるいは改めて経験することができるのか?経験する前にその経験をつくり出すことは私たちにはまだうまくできない。意志決定という経験を予測する、説明する、つまり、事前に経験することはまだできないのである。
 決める際に必ず登場するのが選択。二つ以上の選択肢の中からどれか一つを選ぶことを決めなければ、目標の実現ができない。物理システムが運動する場合、そのシステムは選択するのではなく、初期条件と運動方程式によって状態が決まっていく。状態変化に選択は入っていない。「決まる」と「決める」の決定的な違いはここにある。私たちの自由意志による行動、特に意思決定は「決める」ことの典型例であり、その特徴は自由な選択にある。意志が自由に働くとは自由な選択ができることを意味している。
 物理世界の決定論は「決まる」ことについての主張であり、それに対して心の働きは「決める」ことが重要な役割を果たしていることは既に述べた。では、「決まる」世界で私たちが「決める」ことはどのように実現されるのか。科学がまず対象にするのは「決める」私たちではなく、「決まる」世界であり、因果的であるのは決まり方であって、決め方ではない。決めるのは主体としての私たち、あるいは自然法則であって、その結果として、対象である自然変化が因果的に「決まる」のである。「決める」という主体的、積極的な観点は何かを生み出すことであるが、しかし、どの範囲で「決める」のか、いつ、どのように「決める」のか、その時の手続きは、といったことは不定のままである。もし、「決める」ことが細部にわたって決まっていれば世界のすべては決まっていることになる。しかし、「決める」という主観的な働きは本質的に不定なものを含み、それが「動的」という形容詞(あるいは「動物」という名詞)の実質的な内容を形成しているように思われる。「決まる」ことが不徹底なのは「決める」主体の不完全さに由来し、科学が常に暫定的な知識に止まり,不断の修正を余儀なくされるというのは、この「決める」主体の不完全さに一部は由来している。
 「決める」際の因果的な関係は、「決まる」内容がもっている因果関係ではない。決まったものは「決める」際の因果関係とは独立の因果関係をもっている。この異なる因果関係が自由と決定の両立可能な関係を保証する基礎の一つになるのではないか。
 「決める」ことの構造は直接の論理的な分析に馴染まなく、そのため、「決まる」ことの構造を中心に論理的な分析が行われてきた。「決まる」のほうがはるかに論理的な分析が容易であるからである。「決める」方の仕組みは因果的でも、決定論的でもなく、主観的で自発的と言われてきた。例えば、「決める」ことの具体的な一例である「証明可能である」という述語は次のような性質をもっている。

形式的なシステムFについて、「証明可能である」という述語Pは次の条件を満たしている。
(1) 文AがFにおいて証明可能なら、P([A])も証明可能である。(ここで[A]はAのゲーデル数で、Aの名前である。)
(2) Fにおいて、P([A])かつP([AがBを含意する])なら、P([B])である。
(3) Fにおいて、P([A])なら、P([P[A]])である。

上の「証明可能性」という性質は推移的でも因果的でもない。確かに、主体Sは明示されていないが、証明をするのは私たち主体であり、その主体が証明できるかどうかの構造が「証明可能」という述語の内容である。しかし、形式的に扱うには主体Sを直接に表現することはできない。そこで、Sは背後に隠れることになり、どのような主体であれ、その証明を行なう証明構造そのものが形式化されることになる。「証明可能である」は「決める」の一例に過ぎないが、私たちが「決める」に読み込むのはこれ以外の意志的な作用も含まれている。証明可能性という「決める」の性格は因果的ではない。「決まる」世界は因果的であるのに対し、これは際立った違いである。「決める」から「決まる」のでありながら、両者は異なる論理に従っている。しかし、「決める」なしの「決まる」と、「決める」から「決まる」とは全く異なる「決まり」方であるにもかかわらず、「決まって」しまうならば、いずれであれ因果的に「決まる」ことになってしまう。「決める」は「決まる」世界では何の効果や影響も残さないで、すべては単に「決まる」世界として私たちの考察対象になる。
「決める」行為は「決まる」結果の中に完全に埋め込まれ、どこからも見直すことはできなくなっている。「決める」の性格を論理的構造以外に特徴づけることはできないのか。それは「決める」のダイナミックな側面を考えてみることだろう。もっとも具体的な側面は行為の決定の側面である。「決める」行為が複数競合し、その間に競争が生じる場合がよく扱われてきた。その典型はチェスや将棋のようなゲームである。これらゲームは一定の規則の下に行われるが、ゲームの規則は物理法則ではない。むろん、論理法則でもない。それは言葉の規則に近い。ただ、規則を認める限り、その適用と結末は論理的に定められる。将棋の各駒の動き方は決められている。勝負での駒の動きはそれぞれの対局者が「決める」。この勝負は因果的に決まるのではなく、対局者による駒の動きの決め方によって決まる。このような約定による一連の動きは因果的に考えたのではわからず、決める主体の意図が鍵を握っている。
 上の例は「決める」がこの世界に滲み出ている例である。約定による行為は因果的に考えたのでは理解できない動きである。これは「決める」が主導権をもっている動きであり、単なる因果系列とは異なる内容を情報として含んでいることを示している
 物理学は相互作用を扱うことが苦手である。力学はその代表であり、三体問題はこの格好の例である。では、相互作用を扱うのがなぜ困難なのか。相互作用は開いた複数のシステムを必要とする。開いたシステムの扱いは保存則が成立しないという点だけでも閉じたシステムとは比較にならないほど難しい。さらに複数のシステムを同時に扱うことは一つのシステムを扱うのに比べて数段手がかかる。この二つの厄介な理由が相互作用の物理学の進展を阻んできた。だが、物理学から眼を転じるならば、相互作用を扱う知識は溢れている。それらがすべて確固とした基礎をもっていないなどと言うことはできない。物理学無しに相互作用を扱うトリックはどこにあるのか。それは物理量を基礎に置かないことである。物理量でない典型的なものが情報量である。情報は実に多義的である。物理量として狭く定義することを拒まないと同時に、意味や内容の質的なものまでも担当している。このような広がりをもつ概念ではあっても、それは物理的ではない。情報を基礎に置いた相互作用の代表例が遺伝である。遺伝情報と呼ばれる遺伝子の内容は化学的な組成や構造とは明らかに異なっている。遺伝子の内容は単なるDNAの断片でも化学反応でもない。
意味や内容は情報の一部であると共に、言語の重要な成分となっている。意味をそうでないものに置き換える試みは実に多く考えられてきた。意味の検証理論、行動性向解釈はその代表例である。そのような経験や行動への読み替えは詰まるところ相互作用に辿り着く。情報という概念が厄介なのはそれが新たな視点や概念を誘導することである。例えば、力学的なシステムにデザインという視点は必要でないが、情報が組み込まれた生物システムにおいてはデザイン、機能は不可欠の概念となってくる。意味や内容を扱う心的モデルはさらに志向的な視点が要求される。そして、社会科学においてはこれらの異なる視点や概念が並存している。相互作用から始まるこの一連の概念の導入は事態を驚くほど複雑にする。
 行動経済学で示されたような現実的な人間の意思決定の特徴は、合理的で模範的な正しさとは程遠い。だが、これらは人という生物が長年かけて獲得してきたものであり、安易に非合理的であると断定することはできない。現在のところ意思決定についてわかっていることは極めて僅か。人の意思決定の生理的なメカニズムの全容は依然として不明であり、主体的な意思決定能力を持つAIは未だ完成に至っていない。これも深層学習の成果待ちというところか。

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マルティン・ルター

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(デジデリウス・エラスムス

 自由意志と言えば、ルターとエラスムスの論争が歴史的に名高い。1517年に若き聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』は本人の予想も超えるほどの大きな反響を呼び起こした。エラスムスは当初、ルターとその「聖書中心主義」思想に対して好意的な態度をとっていた。エラスムスはルターが不当に断罪されることがないよう手を尽くしながらも、ルターに対して党派を作ったり、教会の分裂を引き起こさないよう自重を求めた。しかし、ルター自身の活発な活動により、事態は過激化・複雑化し、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。『自由意志論(De libero arbitrio)』はエラスムスの著書。人間が真面目な意志によって善行を積み一歩一歩道徳的に向上しうると確信していたエラスムスは,「信仰によってのみ」救われるというルターの説が人間の一切の善の試みを無に帰し,絶望へと導くものであるとして,人間の自由意志を擁護するため『自由意志論』を著わして,宗教改革運動に批判的な態度を示した。だが、二人の論証は今から見ればほとんど何の意味ももっていない。自由意志と決定論の構図自体がまだ行き渡っていないだけでなく、歴史的な制約の中にあったという方が適切だろう。自由意志と決定論など、時代と共にまるで反対のこととして議論が行われることが珍しくないものはない。
 「自由」を自由に論じることができるには時間が必要だが、今でもそれが実現できているかと言えば、実に心もとない限りである。