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二つの「知る」こと:教育の本質と限界

 学校教育だけでなく、そもそも教育という名のもとに教えられ、学び、知るものはいずれも徹底して過去のもの。それらは過去の別人が見出し、知ったもの。既に知られ、確認されたものが教えられ、伝えられていきます。教師が教えるものは昔の人たちが獲得した知識や技。当たり前のことですが、これから知られる筈のもの、発見される筈のものはまだ知られていないもの、未知のものであるゆえに教えることができません。
 自分で考え、知るということは、未来の未知のものを自前で知ることです。世間はそれを知的探求と呼ぶのですが、当然ながらそれらは教えることができません。未知のものを教育することはナンセンスで、自ら苦労して手に入れるしかないものなのです。
 小学校で最初に習うものときたら、ほぼすべてが遥か大昔のもの。算数、理科などはギリシャ時代の知識。国語も社会も現代のものなど僅かに過ぎません。この状況は中学校になってもたいして変わらず、子供たちは遥か昔に知ったこと、大袈裟に言えば過去の記憶をもう一度記憶するために学校に通うわけです。そのため、習う方だけでなく教える方も随分と退屈で、小中学校の教員が教える教材の内容を理解することに苦しむことはまずなく、どのように工夫して教えるかに関心が集中するのです。
 高校も大学の一般教養もやはり古い内容の教育という点では同じで、教育が昔の知識の受け売り、解説であることに小中学校と何ら変わりはありません。この保守的な教育内容は「教える、学ぶ」ということの実は本質そのものなのです。そこに創造的なものを見出すことが教育の課題になっていますが、課外活動で調査や観測をベースに新しいものを知る、見つけることは稀なことです。子供の創造的な能力を見出し、その能力を発揮させることが教育によって可能なのであれば、そのマニュアルを是非見たいものですが、そんなものはまだどこにもありません。
 有名な学習塾や予備校が東大進学率随一と誇ったところで、そこで何が教育されているかと言えば、試験でよい点数を取るための学習。それは創造的な能力とは別のもので、教育とはその別の能力の利用に向いているのです。本来教育とは未知の知識を手に入れる技であり、善を実践する技なのですが、それは学習塾や予備校では教えないものなのです。
 さて、肝心の話。「知る」ことには自分で初めて知ることと、誰かから習って知ることの二つがあり、人が得意とするのは習って知ること。ですから、大抵の人は知ったかぶりが上手く、知は力なり、知は金なりと考えていることに何の不思議もありません。ところが、人が大変苦手とするのが「自ら初めて知る」こと。未知のものをどうやって知るかは好奇心をそそる課題なのですが、そこにマニュアルはなく、真に頭を使うしかありません。天才は「初めて知る」ゆえに天才なのです。
 「初めて知る」ことは残念ながら教育の限界辺りに漂う主題。研究者はよく自分に教育はできないと謙遜しますが、それはこの辺のことを知っている人の発言です。社会に有用な人材を供給するという教育が「実学」と呼ばれてきたのですが、果たしてそれだけを福澤諭吉が望んでいたかと言えば、そんなバカなことはないだろうと考えるのは私だけではない筈です(福澤の「実学」とは「実証科学」のこと)。
 ここで妥協策を一つ述べておきます。子供たちが「初めて知る」体験を学校でもできるのです。でも、その際の「初めて知る」という体験のほとんどは擬似体験。本当に初めてかどうかは本人には不明でも、本人には本当に初めての体験。理科室の実験で知ることは本人には初めてでも、それは既に既成の事実であり、「初めて」というのは擬似的なものに過ぎません。教育とはそのような擬似体験の集まりなので、何ら驚くに値しないのです。でも、「擬似、模倣、真似ること」が教育の本質だと言われると腹が立つのが普通のリアクション。腹は立ってもそれが教育の本質と限界。