私たちが捉える時間の四つの姿

 人は特定の観点や立場を決めないことには、物事について述べ、意見を主張し、議論し合い、結論を得ることができません。眼前の所与、つまり手元にある(見たり、聞いたりした)感覚的なデータを目安にして自らの観点や立場をまずは決めるということは大変人間的なことです。それは微笑ましくさえあるのですが、そのごく一般的な手順を眺め直してみましょう。言い換えれば、胸を張って自己主張する背後に潜む前提を支えている構図の話ということになります。
 隠れた前提には色々なものがあります。その最もわかりやすく、多くの人の関心を集めてきたのが「時間」(他の隠れた前提の代表となれば、それは「心」)。「時間」は「空間」と並んで昔から多くの人が注目し、絶えず議論されてきた前提で、身近なものでありながら、どこか捉えがたい神秘的な匂いが漂っています。時間は見えませんし、触ることもできません。時間を直接言葉で表現できませんし、その結果、時間を測るには工夫が求められます。その「時間」を理解し、使うための構図がどのようなものかを「…化」という表現を使って考えてみましょう。

f:id:huukyou:20161101061926j:plain

(時間と運動)

(1)時間の経験化(可視化)
 経験主義者が大切にするのはもっぱら知覚経験だと盲信されてきました。ペットの心を感じることができると言い張っても、それによってペットの心が経験的に確かめられたとは誰も認めません。宗教体験を経験主義者は「経験」の範疇に入れないどころか、それは誤った経験であると切り捨てる人も少なくありません。また、心の葛藤のような心理体験も実証しにくいということで遠ざけられてきました。誰もが信頼できる「経験」は日常経験よりずっと狭く、その一部に過ぎないのです。知覚経験の中で多くの人が信頼するのは健全な視覚経験です。人の場合、見ることが経験を生む代表となっています。年を取って時間に余裕ができ、暇になると、人は周りの風景を楽しむようになるものです。物見遊山だけでなく、日常生活の中でも自然の変化を観察し、「時の流れ」を味わうようになります。眼で見て感じる「時の流れ」にはどのような例が挙げられるのでしょうか。一日の気象変化、川の流れ、車の流れ等々、現象変化が常に私たちの周りで起こっていて、目に見えるものの中から不変の恒常的なものを探すのが難しいというのが日常の現象世界の特徴です。そのような捉え方が昔から習慣的になされていて、自然現象は常に変化する現象という一般的な理解が普通になっています(万物流転)。そして、そのような現象変化の経験が時間に関する一般的な通念を生み出すことになります。自分の周りで起こる出来事は現象変化として知覚されます。特に、その変化は目で見て一目瞭然のものが多く、変化を見ることによって私たちはそれを調べ、知り、学習します。「時間を経験する」とは変化を知覚することであり、それが記憶され、蓄積されて、時間の学習が行われることになるのです。これが「時間の経験化」であり、比較的安定した時間観念が知覚経験の積み重ねによってつくられてきたのです。
(2)時間の常識化(言語化)
 時間の常識化とは経験化された時間を共有すること、つまり共通体験化が常識化と言うことです。言語はグループの紐帯のための必須の道具。言語は私たち人間にとって最も大切な能力であり、学習しなければ生活できない大切な道具です。誰もが時間を常識として共有し、時間を共通に認識するために、互いの時間観念について知り合い、確かめ合うことが不可欠です。互いの感覚経験を直接にシェアすることはできませんが、その代わりにできるのは言葉を通じてそれをシェアすることです。経験の共有は言葉を通じて行われます。したがって、時間観念も言葉を通じて共有され、その結果として常識的な時間観がつくられ、それがさらに学習によって集団内にシェアされていくのです。そこには言語が共有されているだけではなく、知識の共有もあって、歴史や文化が伝統として共有されている社会があります。常識は集団社会がないと存在しないのです。常識は生活する上での常套手段であり、共同生活のための知恵でもあります。
 時間もその常識の一つとして集団に共有されてきました。そこには常識がもつ特徴が見事に露出されています。その特徴は、時間の専門家はおらず、誰もが時間についての注釈家になることができるということです。でも、そのためか時間と歴史の混同が始終起き、遂には物理的な時間も心理的な時間も支離滅裂な仕方でミックスされることになります。人は時間について自由に語り、誰もが勝手な自己主張を始める始末です。時間についての自由放任主義が蔓延し、その歴史は今でも続いています。歴史家はじめ誰もが時間に関して一言言うことになります。悪しき平等主義なのかもしれませんが、時間に関する議論は物理学者も文芸評論家も同等の立場でするのが民主主義化であるというような、信じられないほど滑稽とも言える誤りが横行しているのです。歴史家にも心理学者にも時間を語る資格など何もないのに、その自覚もない人たちが平気で時間を論じることに誰も異論を差し挟まないのです。
 「退屈だと時間の流れが遅くなると感じるから、心理的な時間は物理的な時間とは別である」という表現に賛同する人はいないと願いたいものです。「時間が遅くなると感じる」ことを確かめるには遅くなることがきちんと測ることのできる時間が必要で、その時間が遅くなっては困ります。したがって、その時間は心理的な時間ではありません。なぜなら、遅くなると感じる人の心理的時間を使って遅くなることを測ることはできないからです。
(3)時間の数学化(数量化)
 いつでも、どこでも同じように使える時間を表現するために必要な言語は、残念ながら自然言語ではありません。ギリシャ時代以来、私たちの知的探求は自然言語を使ってなされてきました。17世紀までの学問研究は自然言語を使って過去の哲学者の著作の注釈をするという形式で行われてきました。今でもその伝統は文系の学問研究に色濃く残っています。過去のテキスト研究は哲学、歴史、文学等では廃れておらず、今でも常識として実行されています。自分の専門領域を問われ、哲学と答えると、「誰の哲学ですか」と当たり前のように質問され、答えに窮する経験をしてきました。物理学者に「あなたが研究するのは誰の物理学?」と問う人はいません。なぜなら、物理学はテキストの注釈ではなく、実証研究だからです。
 でも、量的な表現に不得意な自然言語は正確に時間の長さを表現することが本当に不得手です。「とても長い」と「大変長い」のいずれが長いのかの判別は常人には無理です。では、不正確で信用できないのが自然言語なのかというと、そんなことはありません。自然言語のとても不思議で、魅力的な点は、見事な文学作品を生み出すための表現を無尽蔵に蓄えていることです。自然言語は繊細、微妙、強烈、頑強な表現を底なしにもっています。
 そのような中で人間が考えた工夫は「数」を使って時間の間隔を表現することでした。そして、それを実現した器具が時計です。時計は長い歴史をもっています。時計は周期的な運動を巧みに利用することによって経過の長さを測り、それを表示するものです。では、その時計が測る時間を正確に表現するにはどうすればいいのでしょうか。それがタイトルの「時間の数学化」です。数学化と言うと、とてつもないような企みにも聞こえますが、数を使って時間を表現することに過ぎません。それは時計をつくることと同時に考えられた見事な技術なのです。
 連続的に経過する時間は「時の流れ」と詩的に表現されますが、それを数学的に表現する必要があります。「流れる時間」は「連続して経過する時間」であり、その連続的な経過は実数によって表現できます。なぜなら、実数は連続的(実数の完備性)であり、しかも線形で、一つの時間の直線的な変化を表現するにはうってつけの表現装置なのです。実数は時間に限らず、計量装置の計量結果を表示するのに広く使われてきていて、過去の実績という点では非の打ちようがない手段なのです。
(4)時間の科学化(可測化)
 時間の科学化には二通りあり、それぞれ独特の特徴と歴史をもっています。
(物理化)
 数学的に表現される時間は、物理世界で信頼できる測定装置とし機能しなければなりません。そのためには、時間が物理的でなければならず、物理的な対象として特徴づけができなければなりません。周期的運動、正確な振動など、自然の中には時間を表現するのに適した物理現象があり、それらは電子の性質に帰着します。その振動は規則的で、物理的な時計として使うことができるのです。
 時間の科学化とは端的に正確な時計の設計。正確な時計をつくることができ、測定の技術が進み、それらの測定結果を蓄積することから、時間の本質が何かを考え、議論し、結論に至ることができるのです。
(生物化)
 生物の歴史は進化生物学の課題。そこに登場する時間は歴史そのもの。それは物理系の変化の時間より圧倒的に長い時間です。地球の歴史を生物の世代交代を通じて理解しようという訳ですが、進化には独自の時間装置はなく、物理的な時間装置を使います。ただ、時間観念は生物種によって多様であり、各生物はそれぞれの長さの一生をもち、それぞれの形式の世代交代をもっているのです。そのような形式、形質の獲得が進化であり、それが生物の歴史なのです。ですから、物理的な時間と同じ時間を使うのですが、単純に適用するのでは駄目で、生物種に応じて異なる時間分割の仕方があり、その分割の仕方が選択され、時間分割の仕方が進化することを説明できなければなりません。

 科学化(可測化)された時間は、様々なものが入り込んだ不純な常識的(言語的)時間とは異なり、一つの物差しで測り、表現できます。意識の中に登場し、そこで使われる時間も通常の科学化された時間なのですが、「時間の意識」となると、常識的な不純で曖昧な時間に戻ってしまうのが常です。時間の意識が特別で、物理的な時間と異なるというのは哲学が生み出した根拠のない妄想に過ぎないのですが、信奉者はなくなりません。それも時間を神秘的なものにしている要因の一つです。