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この世界に私的なものがないのであれば、「私」とはいったい何なのか?

 私的言語、私的規則、私的習慣、私的知識等々、いずれも誰もがもっているのが当たり前というのがかつての常識だったのではないでしょうか。「私だけがもつもの」があれば、私はどれほど惨めでも、自らを誇りに思うことができます。でも、今ではそのどれも見事に否定されています。私だけの言葉、私だけの法律、私だけの知識があるとすれば、それらを独占することによって今太閤を気取れるのですが、それは夢のまた夢。言葉、法律、そして知識は徹底して公共的なもので、権力によるそれらの一時的な独占など不自然な異常状態に過ぎません。法律は誰にも平等に適用でき、知識も文化も誰もが平等に享受できるべきものと考えられています。こうして、私だけの私的なものはこの地上にはどこにもないことになります。でも、私たちの誰であれ、この地上に私的なもの、私有物が何もないなどと考えたことは一度もない筈です。それどころかこの世は私有物に溢れた格差だらけの世界だと思っているのではないでしょうか。特に、資本と情報が占有され、独占されているのは否定できない事実です。
 このように相反するように見える「私的なもの」の存在は、私たちが「私のもの」を二つに大別して理解していることから説明できます。一つは私的財産、私的所有物のような対象(object)、他は私的記憶、自我のような概念(concept)です。前者の代表は資本、後者の代表は「私」。その原則は、具体的な対象の場合は私的なものの存在を認め、抽象的な概念の場合は私的なものの存在を認めない、ということです。例えば、共産主義は私的な対象を認めませんでしたが、私的概念は認め、「私」という概念も当然その中に入っていました。
 では、「私的…」と呼べるものは何なのでしょうか?「私的」なものの代表となれば、私有財産と、「私」あるいは自我。私有財産は大半の人たちが少しでも多くなることを望むものとして何ら議論の余地はないものです。議論の余地がないとはそれ自体はつまらないものということ。実際、私的財産は破産すればなくなり、他人に渡ってしまうものです。それに反して、大変哲学的な問いは、究極の私的なものである「私」、つまりは自我、自己は何をもってして自我、自己なのか、ということです。さらに、その対極にある、他我、他者、他人とは何なのか?こうなると重要な問題が山積で、ワクワクするような気分になってきます。自分と他人との違いは一体何なのか、この問いはとても現実的に見えて、実はとても哲学的な問題なのです。
 概念的に「私的」なものは文学で問題になるだけのような事柄です。社会の中の私有財産は私的な対象を公的に扱う仕組みができることによって解決済みのものと、プライバシーや情報公開のように現在も検討中のものがあるにしても、いずれも公的に解決することが目指されてきました。公的に処理できないものが一括して「私的」と分類され、その扱いも哲学、心理学、文学や芸能に任されてきました。公的な対象としての私有財産と「私小説」や「自己や自我」のような概念は互いにどのように関連するか十分に考察されてきませんでした。特に、社会の私有物はどのような意味で「私有」かは問われず、それをどのように守るかがもっぱら考えられてきました。
 ユニークなもの、ただ一つのもの、かけがえのないものとしての個人や個体はどのようなものなのでしょうか。生物個体や個物が同じである、あるいは違っているということは、どのように判定できるのでしょうか。個体や個物を構成する基本要素の組み合わせの違いが個体差や個性を生み出しているというのが標準的な解答。同じ個体であることを保存したまま個体の部分をどれほど取り換えることができるのかという問いは誰もがその答えに悩むでしょう。移植技術が進み、取り換えがどこまで可能かの範囲は確実に広がっています。心臓だけでなく脳の移植が可能になるなら、人格の同一性の基準はどうなるのでしょう。個人の同一性は身体だけでなく、その人の記憶や経験に大きく依存しています。つまり、ある人が同じ人であるとは、その人が身体的に連続しているだけでなく、同じ経験をし、同じ記憶をもつということも含まれています。では、経験や記憶がユニークであることはどのように保証されているのでしょうか。その保証は(最も月並みな考えですが)、自由意志による選択にあります。選択によってつくられる系列はその個体にだけ固有の経験とその記憶を生み出し、それがユニークさにつながるのです。

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  (選択)

 人の記憶や経験は、その人の自由意志による選択によって生み出されるユニークな系列からなっています。そして、それが個性の構成要素になっています。自由意志による選択がその個人の経験のユニークさを生み出しているのです。自由に選択できることがユニークな私的経験を生み出し、それが個体差や個性につながっているのです。つまり、個体の構成要素だけでは説明できないユニークさはその個体が選択する行動とその経験や記憶によって説明されるのです。