感性のふくらみ:北斎と広重の競い合う風景

 富士を描いて日本人の心を捉えたのが葛飾北斎。自らを「画狂老人」と称した天才が72歳で出したのが『富嶽三十六景』。それまで美人画や役者絵が中心だった浮世絵に「風景画」という新たなジャンルを切り開き、人々を熱狂させたのである。そして、僅か2年後、北斎の前に立ちはだかったのが歌川広重。広重は東海道にある五十三の宿場を描き、北斎を超える空前の大ヒットとなった。二人のライバルの背景には、飢饉や災害によって危機に陥った幕府を立て直すための寛政の改革があった。
 『富嶽三十六景』の「神奈川沖波裏」を見たドビュッシーは、交響曲『海』を作曲した。北斎が生まれたのは宝暦10年。浮世絵の成熟期にデビューした北斎は、その才能を早くから認められ、やがて役者絵や黄表紙の挿絵などを描きその名を広めていく。時は田沼意次の時代で、江戸では歌舞伎、大相撲、出版など都市文化が華やいだ時期だった。ところが、天明飢饉浅間山の噴火により一揆や打ちこわしが続発。幕府は危機に陥り、緊縮財政をめざした「寛政の改革」が始まる。北斎にも不幸が訪れ、勝川派を破門され、独自の世界を歩んでいく。当時、日本には銅版画が伝えられ、西洋風の絵が求められていた。北斎は西洋の陰影法を多用し、荒ぶる波を表現。「神奈川沖浪裏」に通じる絵を誕生させ、北斎は生涯にわたり「波」を描いていくことになる。そして、天保2年、満を持して発表したのが『富嶽三十六景』シリーズ。浮世絵風景画の代表作となり、北斎の人気は絶頂を迎える。
 その2年後の天保4年、別の絵師が「東海道」をテーマに新たな「風景画」を発表。北斎を上回る爆発的なヒットとなった。それが歌川広重。『東海道五十三次』を描き、北斎の前にあらわれた広重は、どのような人物だったのか。広重は寛政9年、定火消同心の御家人の家に生まれた。相次いで父母を喪い13歳で家督を継いだが、27歳の時に返上して絵の道に入る。広重は円山応挙の影響を受け写生を重視。それは、不遇時代を過ごす広重が自ら学んだ「新境地」だった。応挙の絵との出会いが、広重の原点となった。天保2年、満を持して広重が描いたのが『東都名所』、だが、売れ行きは悪かった。広重が描いた『東都名所』と同じ年に発表されたのが北斎の『富嶽三十六景』。その大胆な筆致は、たちまち江戸っ子たちを魅了。広重の浮世絵はその陰に隠れたてしまう。30代の広重より、齢72の老人の方が斬新で革新的だったのである。その2年後の天保4年、広重にチャンスが訪れる。版元「保永堂」から東海道をテーマにした浮世絵を依頼される。この時、広重は53の宿場を歩いたとされている。天保4年、37歳広重の『東海道五十三次』が大ヒット。

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(「深川洲崎十万坪)

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(「亀戸梅屋舗」)

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(「大はしあたけの夕立」)

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(「浅草金龍山」)

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(「王子装束えの木大晦日の狐火」)

 嘉永6年にペリーの黒船が浦賀に現れ幕末の動乱が始まる。安政2年に安政の大地震が発生する。この4ヶ月後に広重は『名所江戸百景』を描き始める。『名所江戸百景』は空高い所からの俯瞰と、近景を大写しにし遠くを望むダイナミックな構図が特徴的で、自由自在な視点が広重の天才を物語る。私が最も気になるのが「深川洲崎十万坪」。「深川洲崎十万坪」の舞台の深川は江戸時代に埋め立てられ発展し、その外れにある洲崎はたびたび水害に襲われ、荒涼たる風景が広がり、鷲の飛来地として知られていた。筑波山を背景に、暗い空から雪が降り、人の気配はない。天高く翼を広げた鷲の鋭い視線の先には波間に浮かぶ桶がある。風景画に昇華されているが、洲崎は津波の被災地で、桶は流された棺桶か。
 「風景画」というジャンルを確立した北斎と広重。市場に多く出たのは圧倒的に広重の方だった。そのため北斎は自らが開拓した風景画をやめ、肉筆画を中心に描き始める。北斎と広重、どちらが真の勝者なのか。北斎は生涯にわたり波にこだわりをみせた。対する広重は、写実を基本とし、北斎とは対照的に穏やかな波を描いた。
 北斎と広重の風景画対決からから20年が過ぎた嘉永6年、ペリー率いる黒船が来航。北斎と広重は印象派に衝撃を与えることになる。その最初の衝撃を与えたのが北斎。開国後、日本の陶磁器が数多く海外に流出。陶磁器を収集していたフランスの画家ブラックモンはその包み紙に衝撃を受ける。その包み紙が何と「北斎漫画」。その後、ゴッホやモネは、北斎や広重に出会い、大きな影響を受ける。2人のライバル関係から生まれた「風景画」は印象派革命の引き金となったのである。
 嘉永2年、北斎は90歳で、その9年後広重も62歳で、それぞれの生涯を閉じた。