Global Story or Local Story?(1)

(知識に物語を見出す:人間的な知識はグローバル、それともローカル?)
 知識も情報もどこでも通用する普遍的で、グローバルな概念だということが誤りだとはおそらく誰も思わないのではないでしょうか。これが正しいという信念はこの数世紀揺るぎません。というより、そのような信念が真理だと前提されてきました。一方、民族や地域に応じて異なる知識があったことが忘れられつつあるように見えます。それは、複数の、局所的で、孤立し、分断された概念が、伝統、文化、習慣、常識等にはあるのだという考えです。確かに、異なる歴史、文化をもつ地域が散在し、互いにわずかな交流しかないという状況がかつての世界のあり方でした。それは時にはよいことだったのですが、いつの間にかそれは一律に弱点、欠点だと見做されるようになりました。世界中が同一の基準、製品、文化、暮らし向きをもつことがよいことで、それを推進することが善と思われ、様々なところで実行されています。
 では、知識や情報の民主主義、自由主義グローバリズムは地域の振興や復興、活性化に対してどのような意味をもっているのでしょうか。異なった知恵、コツ、技、身のこなし、生き方などが伝統、文化として、歴史的にそれぞれの地方に独特の仕方で根づいてきました。それは外部の人たちから見れば、内在主義的な知恵、地域だけに共通する意識ですから、見方によっては地域の伝統を守ることは反グローバリズム反自由主義であると(一方的に)解釈することもできるのです。
 自己中心主義、家族主義、民族主義は大概否定的に受け取られ、復興や振興は新知識、新技術を使ってダメージを受けた心身の双方を治療すること、あるいは強化することだと見做され、知識をどのようにうまく地域に適用するか、治療するかが高く評価され、そのために正確で効率的なコミュニケーションを図る必要があると考えられています。知識や技術の情報化とは地域や心身への適用を最適化することであり、文脈化され、局所化、地域化、医療化されたのがそれぞれ現場で使われる情報となると受け取られています。
 知識や技術を情報化し、物語の結末として目的を捉え、途中の過程を公開しながら目標へのシナリオを描くことが公正なやり方だと信じられていますが、そこにグローバルなものとローカルなものが時には相反する様相を呈することが問題になるのです。様々な局面で世界基準か地域基準かの選択が求められます。そして、選択の際にしばしば争いや対立が起こるのです。この問題は実に大切な問題で、地方創生の話などには必ず登場します。その前に、知識を使うことが知識の物語化なのだという基本的なことをはっきりさせてみましょう。
 知識を整理していけば最終的に理論にまとめることができます。その理論に文脈をつけて情報化(モデル化)すると、物語ができ上がります。「知識が物語的だ」ということは、理論がどのような意味で物語なのか、どのような仕方で物語になるかを示すことによって説明できます。そこで様々な理論を思い浮かべながら、理論がどのように物語性を獲得できるのか探ってみましょう。医学の知識を使って治療することは、医学的知識の物語化の一例です。
 まずは、最も物語とは縁遠いと思われている数学。数学理論の例としてユークリッド幾何学を取り上げるなら、そこに登場するのは点や線、面や図形といった一群の対象です。ヒルベルト流の形式主義では数学的対象は単なる記号で構わないのですが、ギリシャ以来点、線、面といった対象として解釈されてきました。「点が集まると線になる」のですが、その線をつくり出す物理的過程は物語には登場しません。点をどのように並べると線になるのかという実際の細部にはこだわらず、「線を引く」という私たちの行為を信用して、「点から線が生まれる」ことが物語では前提されています。そもそも点とはどんな対象なのかさえ定かではないのです。
 次は物理学の物語。すべての科学に共通する実証的な実験や観測は因果的でなければ実現できず、それゆえ、実験や観測の手続きは因果的あるいは物語的になっています。つまり、実証的=手続き的=因果的=物語的なのです。さて、物理学の肝心の対象は「運動」。運動の原因や結果は運動の一般的な記述とは別に特定の状況として考えられる場合がほとんどです。そうでない場合は運動法則に言及するだけで説明や予測ができ、因果連関を持ち出す必要はありません。どのように個別の状況として解釈されても、運動法則の一般的適用は同じようになされます。
 化学の物語に登場するのは元素。運動と並んで物質の構造の解明に人々は好奇心をもってきました。原子論はギリシャ以来の優れた物質と運動についての理論。原子という不変の粒子の組み合わせによる物質と運動の説明は実に見事な仮説です。それが化学的な原子論仮説になるには18世紀まで待たねばなりませんでした。
 生物学の物語となれば、生命。今は誰も信じていない「生気論」は、生命は他のどのようなものにも還元できない原理であると主張しました。
 これら物語に登場する主役たちはいずれも正体不明で、謎に満ちた対象です。それらは私たちの知識を生み出し、好奇心を掻き立てるもので、永遠の謎、憧れです。知識はそれら謎の原理を主役とする物語によって生まれ、物語によって脚色され、物語によって修正、変更され、その過程そのものがまた物語になっています。物語の筋は因果的な過程の青写真。主人公と主な登場者がどのように因果変化をするかの叙述が物語になっています。例えば、デカルトの方法的懐疑のシナリオ、それぞれの人のもつ人生という物語は私たちが何かを考えるだけでなく、疑い、信じ、恨み、苦しむという心理レベルの物語になっています。
 信念、そして知識、さらには感情や欲求の内容は本質的に因果的、それゆえ、物語的なのです。論理や言語は論理的、形式的な規則をもっていますが、それは表現レベルの話であり、論理や言語を使って表現される内容は因果的、歴史的、それゆえ物語なのです。
情報は物語的で、物語的でない情報は暗号化された情報で、わからない情報です。
 これまでの話は科学知識についてのもので、その物語化は素直に行われればグローバルなものになります。既に述べた宗教であれば、ローカルな物語が圧倒的。でも、グローバルなものとローカルなものの違いは本質的ではなく、文脈づくりに応じて変わるものというのが私の見立てです。それについては次回に述べましょう。知識の理想は普遍性にあり、その特徴がそのままグローバルな物語の一方的な採用につながったというのが今回の結論です。