<「知識、情報、そして文脈」への補足>

世界の描像:例えば、山水画と風景画
憎まれ口1
 生のデータが情報で、そのデータを処理するのに使われるのが知識、それが「情報」と「知識」の違いで、そこに何も問題ないというのが普通の反応で、それゆえ、私の議論など不要というのが一般的な相場。私たちの常識はバランスの上に立っていて、どこかが綻びるとあっという間に総崩れになる。「生のデータ」、「処理」、「処理に使う」ことをはっきりさせようとすると、途端に綻びが出てしまう。それが「常識」の本性で、私の突破口。

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憎まれ口2
 仏教儒教の教義や見解を背後に置き、自然を自在に表現したのが山水画。それをもっとずっと真剣に、しかも理屈までつけて象徴的に表現したのが曼荼羅。いずれも知覚される世界を克明に復元、描写した西欧の風景画とはまるで異なる。経験される世界、知覚される世界の正確な描写からスタートし、それを再現し、説明できる知識のモデルは数学的システム以外には今のところない。山水画曼荼羅も、そしてイコンもそのようなシステムによっては説明ができない。

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憎まれ口3
 「世界をどのように理解するか」、それは私たちの能力が試されている問い。私たちがどれほどの知性と想像力をもつかを知る早道は、過去の私たちの答え。私たちの歴史が私たちの能力の証明になるとすれば、その解答は「実に惨憺たるもの」。過去からの教訓となれば、私たちがほぼ無力で、この世界で辛うじて四苦八苦しながら生きているに過ぎないことが明々白々。今のところ、誰がどう評価しても宗教が説く世界より、物理学が主張する世界の方が信頼されている。人は奇妙な習性をもっていて、教え込まれて信じているものはたとえそれが誤っていても捨てることをよしとしない。それは、未来に貢献することがないのに、遺産を守るということ。過去を記憶(記録)するのがよいことだと盲信している識者が多過ぎる。未来のことを予測しようと躍起になる研究者が少な過ぎる。

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憎まれ口4
 遠近法を使った風景の描写は何と倹しく、ささやかで、律儀な描写だろう。曼荼羅山水画の想像力溢れる、観念的で自由奔放な描写は、遠近法に忠実な風景画とはまるで異なることを示している。謙虚さ、従順さが山水画曼荼羅にはまるでない。曼荼羅山水画には強靭な自己主張が見事に描かれていて、それゆえ、人々の心を惹きつけてきたのである。遠近法が与える印象は、「本物擬き」の風景の再現への巧みな手法という所がせいぜいのところ。だから、セザンヌは知覚像の再現など目指さなかった。

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