文脈生活:文脈こそわが命

 人の生活は骨の髄まで文脈的である。これは人の運命と言ってよい。大袈裟に言えば、被造物すべてが文脈的で、神のみが非文脈的なのである。一日が繰り返され、一年が反復され、それが生まれたときから死ぬまで続く。毎日がリセットのようでもあるが、それが時間的な文脈の繰り返しの例。むろん、一日ごとに新しい文脈が設定される必要はなく、時には目的の成就に何年も同じ文脈の中での苦闘が続く場合もある。文脈の形式も内容も多様でも、生きることには文脈が分かち難く結びつき、一体化している。
 人はどこかの国のどこかの町で暮らし、住所をもっている。住所不定という場合があるにしろ、場所の文脈となれば、住んでいる地域であり、それは大抵は固定されていて、稀に違う場所に移住するというような文脈変化が起こる。旅行による文脈の小さな変更は生活に彩りを与えている。
 このような時間と場所の文脈以外にも、私たちは実に多様な文脈を財産のように有している。仕事上の文脈の一つは分業。様々な職業があり、地位や役割が分かれていて、一人一人が異なる文脈をもっている。大抵の場合、各人の仕事上の文脈はコントロールされたものが多く、就業規則だけでなく、制服や接客のような文脈を補助するようなものまで決められていて、明確に意識されているものから暗黙に決められているものまで、複雑な文脈の網の目が張り巡らされている。私たちはそれらのほとんどを無意識に、受動的に受け入れて生活している。
 私たちはみな異なる文脈の中で生きている。文脈は一人の個人でも時と場所の違いに応じて変わっていく。文脈は一人一人異なり、それが時には社会の中の格差につながっている。私たちは個人差や個性をもっているが、それらには文脈の違いが大きく関与している。個人の生得的な性質だけでなく、個人がどのような環境で生活するかがその個人の個性形成に役割を果たしていることは言うまでもなく、育ちの部分は文脈(環境)に大きな影響を受けることは広く認められている。
 では、文脈の中で生きるとはどのようなことなのか。「一寸先は闇」と言われるが、私たちは知らないことに囲まれて生きている。もどかしいほどに知っていることが少なく、そのためか未来のことが予想できなくても誰も大して気に病まない。闇だらけの世界で生きるためにサーチライトを当てる必要があるのだが、それができるのは特定の文脈を設定した場合だけである。文脈とはサーチライトの光の当たる部分のことである。
 文脈に埋没しながら、そこにフィットした知識を情報として駆使することが生きることだと述べてきたが、これは昼間起きている間のこと。寝ているときは(意識について)文脈を離れることになる。それを寝ている時ではなく、起きているときにも意識的に行うのが、これまた人の特徴で、「文脈離れ」と呼べるのではないか。懐疑、躊躇、反省、確認が求められる場合、私たちは立ち止まり、文脈離れによって再確認、再検討し、やり直すのである。
 私たち人間は有限であり、行為を成功させるためには焦点を絞らなければならない。限られた情報を有効に使うには「文脈」が不可欠で、文脈の利用は生物学的な適応と呼んで構わないだろう。「狭い世間」は生きるための工夫であり、巧みな適応なのである。神の生き方と人間の生き方の違いは正にここに存する。神は普遍的でグローバルな知識をもち、それを分け隔てなく、自在に使うことができる。だが、私たちにはそのようなことは不可能。ローカルな世界にしか生きられないのが人間の生き方。文脈生活は正に私たちの生活のエッセンスであり、偏狭な心と近視眼的な知覚をもって生きていくためには世界を文脈に局限しなければそもそも対処できないのである。
 文脈は実に都合の良い工夫で、進化の結果としての適応だと言い誇っても構わないほどのものである。それ以上に文脈は物語の本質的な構成要素になっていて、科学的に知ることとは違う「知る」形式を科学よりはるか以前に文学として生み出していた。科学理論では脇役の文脈は文学では正に主役で、それが本来文脈的な私たちを本能的に惹きつけ、物語に熱中できる理由となってきたのである。
 文脈設定が本能的なことを示す、より説得的な理由が論理である。演繹論理の形式が文脈的で、それゆえ人間的なことは次のような理由からである。「演繹(deduction)」は前提から結論を論理規則に従って導き出す推論方法だが、この形式は正に文脈的。なぜなら、前提と結論の演繹的関係は、前提によって文脈を設定し、その文脈内で導き出される結論、つまり結果という関係になっている。原因と結果の間の関係とよく似た構造をもち、前提が文脈の設定に対応し、結論が文脈内での結果ということになる。推論する際の前提は文脈の設定そのものであり、論理的な推論は特定の文脈設定のもとで行われる。つまり、文脈が設定されないと演繹ができないのである。
 これは演繹だけでなく、帰納アブダクションについても言える。帰納が人間的なのはデータを網羅できないという人間的理由が色濃く表れている。これはアブダクションも同じで、まず推測してみることも神なら絶対にしないことである。
 文脈設定のもう一つの理由は言語である。言語はもう一つの人間的な文脈の存在を示す例。自然言語はそれが話されている地域を考えれば局所的である。特に、日本語は親戚もない孤立した言語。バベルの塔以来、異なる自然言語の間では翻訳がない限りコミュニケーションが不可能である。自然言語は普遍的な言語とは程遠く、どれも文脈的で、局所的である。つまり、私たちが自然言語を習得し、それを使って生活すること自体が文脈的なのである。
 私たち一人一人もローカルな存在。生まれ、死ぬのが有限な人間の常。それは古典力学のモデルとは大違い。生成消滅のない世界での普遍的な運動変化とは違って、私たちの存在、生き様そのものがローカルで文脈的なのである。そうではあっても、それに抗して私たちは普遍的、不変的な知識を希求する。その一方で、文脈を利用して生活を楽しむことも決して忘れない。知識と文脈の仲介が情報であり、これら三つの巧みな組み合わせが私たちの生活を生み出しているのである。