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知識、情報、そして文脈(4)

 知識の形式となれば、誰が何と言おうとその典型は科学理論。数学言語を使った理論の公理系がその最も抽象的な姿で、正に知識の象徴的な形態。実際は物理理論の解釈(=モデル)が通常私たちが物理理論と呼ぶものになるのだが、その物理理論を使った私たちの最終ゴールということになれば、因果的な出来事の展開結果の予測と、それを使った装置や物体の作製である。その解釈が私たちの住む現実世界についてのものなら、その知識は情報と呼ばれ、文脈や状況が具体的に決まると、それは日常活動の記述・説明に変わり、それを使って生活が便利に変えられることになる。だが、文脈や状況の一般的な定義となると、残念ながら未だはっきりしていない。むろん、文脈や状況がどんなものを指すか、私たちはある程度心得ているのだが…
 経験的な知識は「正当化された真なる信念」というのが通り相場だが、「正当化」は当然ながら経験的に行われる。だが、認識論で議論の対象になってきた知識はもっぱら意識内の「知る」作用についてであり、デカルト的には真であることは意識内で明晰判明な観念によって保証されるだけで、つまるところ、意識を除いた経験の中では知識は端的に「真なる信念」。その正当化を経験的に行おうとすれば、知識の「情報化」が必要となる。知識を情報として扱うことが「情報化」。情報とは経験主義化された知識のことで、そのモデルが実際の世界の構成要素を含むなら、そのモデルは情報と呼んで構わない。情報は必ず文脈がつく。というのも、実証性という哲学的理由もあるが、より肝心の理由は、情報量の定義に確率が使われ、それには少なくとも確率空間という(形式的な)文脈を必要とするからである。
 文脈を一つ設定することは物語の出発点を一つ作ること。文脈は「適用条件」、「初期条件」と言い換えてもいいだろう。モデルも文脈も共に物語構造を共有している。物語は世界の中で起こる出来事の因果的な系列からなっている。複数の文脈が自由に想定できることから、その中の一つを選択することが実際に起こる出来事の因果的な系列になる。目標や手法の選択だけでなく、文脈設定自体も選択の対象となる。
 モデルの領域は抽象的なままで構わないが、文脈は実際の場面や状態が主になっていて、それが知識を外在化することにつながっている。文脈の構成要素は伝統、歴史、文化など様々で、それらによって知識は情報化され、さらにグローバル、ローカルな情報に分類、分化されていく。
 偏向した、しかし一般的な理解によれば、知識は本や図書館、そして大脳に内蔵されている。それが知識の存在の仕方で、内蔵された内容は言語によって表現できると考えられている。だが、使われる知識、技やコツ、現場の状況はコミュニケーションと密接に結びつき、物質的なものとつながっている。だから、それらは操作でき、実証することができ、何かを作り、壊すことができる。つまり、知識はどこかに秘蔵されているのではなく、「力」となって存在している。
 実際に使用中の知識、情報はどのようなものとして理解するのがよいのだろうか。行動するときの意志決定、選択の判断、目標設定、決定と命令などが知識、情報を使って行われている。判断、決定が知識、情報を使ってなされるプロセスの記述と説明は残念ながらまだはっきりわかっている訳ではないが、(数学的あるいは論理的な)計算による答えがそのまま判断、決定である簡単な場合は、比較的わかりやすい。
 さて、文脈には二つの役割がある。まずは知識の待ったなしの使用は現実に組み込まれ、現実と一体となっているが、文脈はその現実を生み出す原動力という役割をもっている。文脈の設定から、そこでの変化を引き起こし、文脈の変化をコントロールするのは私たち自身で、そのコントロールに使われるのが情報。知識は位置や時刻が特定された情報になっていて、それが文脈を変えていく原動力の一つになる。文脈は情報が作り、情報によって変えられていく。
 一方、待ったをかけ、現実を離れ、文脈から超越をするのがこれまた人の常。言葉の意味を定義する、確認するといったことは、一度立ち止まって振り返ることであり、作業の中断である。それは、自分の行動に自信がなくなる、疑いをもつときに取られる普通の行動である。
 これら二つの異なる文脈に係わる知識は私たちには全く異なったものに映る。信頼して使い、仕事をするのに組み込まれた文脈での知識と疑問をもち、疑う文脈での知識は「知識」という用語が同じだけで、まるで異なっている。月とスッポンという訳である。前者が日常生活で使っている知識、後者が認識論で「知識とは何か」といった問題を議論する際の知識である。
 文脈は人がつくる。私たちの生活は文脈生活と言ってよく、文脈こそわが命という訳である。人の生活は骨の髄まで文脈的である。これは人の運命と言ってよい。大袈裟に言えば、被造物すべてが文脈的で、神のみが非文脈的なのである。一日が繰り返され、一年が反復され、それが生まれたときから死ぬまで続く。毎日がリセットのようでもあるが、それが時間的な文脈の繰り返しの例。むろん、一日ごとに新しい文脈が設定される必要はなく、時には目的の成就に何年も同じ文脈の中での苦闘が続く場合もある。文脈の形式も内容も多様でも、生きることには文脈が分かち難く結びつき、一体化している。
 人はどこかの国のどこかの町で暮らし、住所をもっている。住所不定という場合があるにしろ、場所の文脈となれば、住んでいる地域であり、それは大抵は固定されていて、稀に違う場所に移住するというような文脈変化が起こる。旅行による文脈の小さな変更は生活に彩りを与えている。
 このような時間と場所の文脈以外にも、私たちは実に多様な文脈を財産のように有している。仕事上の文脈の一つは分業。様々な職業があり、地位や役割が分かれていて、一人一人が異なる文脈をもっている。大抵の場合、各人の仕事上の文脈はコントロールされたものが多く、就業規則だけでなく、制服や接客のような文脈を補助するようなものまで決められていて、明確に意識されているものから暗黙に決められているものまで、複雑な文脈の網の目が張り巡らされている。私たちはそれらのほとんどを無意識に、受動的に受け入れて生活している。
 私たちはみな異なる文脈の中で生きている。文脈は一人の個人でも時と場所の違いに応じて変わっていく。文脈は一人一人異なり、それが時には社会の中の格差につながっている。私たちは個人差や個性をもっているが、それらには文脈の違いが大きく関与している。個人の生得的な性質だけでなく、個人がどのような環境で生活するかがその個人の個性形成に役割を果たしていることは言うまでもなく、育ちの部分は文脈(環境)に大きな影響を受けることは広く認められている。
 では、文脈の中で生きるとはどのようなことなのか。「一寸先は闇」と言われるが、私たちは知らないことに囲まれて生きている。もどかしいほどに知っていることが少なく、そのためか未来のことが予想できなくても誰も大して気に病まない。闇だらけの世界で生きるためにサーチライトを当てる必要があるのだが、それができるのは特定の文脈を設定した場合だけである。文脈とはサーチライトの光の当たる部分のことである。
 文脈に埋没しながら、そこにフィットした知識を情報として駆使することが生きることだと述べてきたが、これは昼間起きている間のこと。寝ているときは(意識について)文脈を離れることになる。それを寝ている時ではなく、起きているときにも意識的に行うのが、これまた人の特徴で、「文脈離れ」と呼べるのではないか。懐疑、躊躇、反省、確認が求められる場合、私たちは立ち止まり、文脈離れによって再確認、再検討し、やり直すのである。
 私たち人間は有限であり、行為を成功させるためには焦点を絞らなければならない。限られた情報を有効に使うには「文脈」が不可欠で、文脈の利用は生物学的な適応と呼んで構わないだろう。「狭い世間」は生きるための工夫であり、巧みな適応なのである。神の生き方と人間の生き方の違いは正にここに存する。神は普遍的でグローバルな知識をもち、それを分け隔てなく、自在に使うことができる。だが、私たちにはそのようなことは不可能。ローカルな世界にしか生きられないのが人間の生き方。文脈生活は正に私たちの生活のエッセンスであり、偏狭な心と近視眼的な知覚をもって生きていくためには世界を文脈に局限しなければそもそも対処できないのである。
 文脈は実に都合の良い工夫で、進化の結果としての適応だと言い誇っても構わないほどのものである。それ以上に文脈は物語の本質的な構成要素になっていて、科学的に知ることとは違う「知る」形式を科学よりはるか以前に文学として生み出していた。科学理論では脇役の文脈は文学では正に主役で、それが本来文脈的な私たちを本能的に惹きつけ、物語に熱中できる理由となってきたのである。
 文脈設定が本能的なことを示す、より説得的な理由が論理である。演繹論理の形式が文脈的で、それゆえ人間的なことは次のような理由からである。「演繹(deduction)」は前提から結論を論理規則に従って導き出す推論方法だが、この形式は正に文脈的。なぜなら、前提と結論の演繹的関係は、前提によって文脈を設定し、その文脈内で導き出される結論、つまり結果という関係になっている。原因と結果の間の関係とよく似た構造をもち、前提が文脈の設定に対応し、結論が文脈内での結果ということになる。推論する際の前提は文脈の設定そのものであり、論理的な推論は特定の文脈設定のもとで行われる。つまり、文脈が設定されないと演繹ができないのである。
 これは演繹だけでなく、帰納アブダクションについても言える。帰納が人間的なのはデータを網羅できないという人間的理由が色濃く表れている。これはアブダクションも同じで、まず推測してみることも神なら絶対にしないことである。
 文脈設定のもう一つの理由は言語である。言語はもう一つの人間的な文脈の存在を示す例。自然言語はそれが話されている地域を考えれば局所的である。特に、日本語は親戚もない孤立した言語。バベルの塔以来、異なる自然言語の間では翻訳がない限りコミュニケーションが不可能である。自然言語は普遍的な言語とは程遠く、どれも文脈的で、局所的である。つまり、私たちが自然言語を習得し、それを使って生活すること自体が文脈的なのである。
 私たち一人一人もローカルな存在。生まれ、死ぬのが有限な人間の常。それは古典力学のモデルとは大違い。生成消滅のない世界での普遍的な運動変化とは違って、私たちの存在、生き様そのものがローカルで文脈的なのである。そうではあっても、それに抗して私たちは普遍的、不変的な知識を希求する。その一方で、文脈を利用して生活を楽しむことも決して忘れない。知識と文脈の仲介が情報であり、これら三つの巧みな組み合わせが私たちの生活を生み出しているのである。

 私はこれまで知識と情報、そして文脈について述べてきた。知識と情報の違いは次のような話に仄見えている。
 プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、「だれもソクラテスより知恵あるものはいない」というアポロン神託は、はじめはソクラテスにとって「謎」であった。彼は「自分が知恵ある者だなどということには全く身に覚えがない」という「無知の自覚」と「神が嘘を言うはずはない」という「神の信仰」との間にはさまれて、アポリアに陥ったからである。そこで、神の神託が誤りであることを示そうと、世間で知恵ある者だと思われている三者-政治家、詩人、手職人-のもとを訪れた。そこで彼が見出したのは、それぞれ「自分が知恵ある者だと思っているが、実はそうではない」ということと、彼自身は、例えば善や美などということを「実際に知らないので、彼らのように知っているとも思っていない」ということであり、この無知の自覚の点で自分の方が彼らより「ほんの少しばかり」知恵があるということだった。こうして神託の謎は解け、それが反駁されない真理であると悟った。しかし、ソクラテスは、彼を知恵ある者だとする世間の人々の偏見を前にして,神のみが知恵ある者だと主張する一方、この神託を「人間たちよ,お前たちの中では,ソクラテスのように自分は知恵については全く価値のない者だと自覚している者が最も知恵ある者なのだ」と一般化して解釈したのである。
 さて、知ったかぶりをするのが人間の常であるが、知ったかぶりが知識の悪用を諌めるための反面教師の例であることもよく知られている。誰も知ったかぶりを褒め言葉としては使わない。しかし、知ったかぶりをすることこそが知識の本性であり、それがなければ人間が知識を使うことができないという点に、忘れられてきた知識の謎が潜んでいる。知ったかぶりこそ知識の本性だという主張を考えてみよう。
 「無知の知」はソクラテスの名言として有名である。ソクラテスが他の人より優れていると言えるのは「自分が何も知らないことを知っている」という点にある、というのがその解釈で、成程と多くの人々を唸らせてきた。だが、「知らないことを知っている」ということは形容矛盾の匂いがしないだろうか。あることを全く知らないなら、それを知っているとか知らないとか、といったことは話題にもならない。表面的な理解、聞きかじり、部分的な知識をあたかもすべて知っているかのように(他人に対して)振舞うこと、つまり、知ったかぶりをすることを諌めたものと考えるのが自然で、無難な解釈となっている。
 誰も生活に必要なものすべてを自らの手でつくらない。知識も同じで、すべて自前の知識でないと使えないとなったら不便この上ない。次の例を考えれば、私たちだけでなくソクラテスさえ他人がつくった知識に頼っていることが納得できるだろう。「ABである」ことがどのようなことなのか、どのような意味なのかを知らなくても、それを使って「BCである」ことと組み合わせて、「ACである」ことを導き出すことができるし、それだけでなくその結果を様々な活動に使うことができる。誰も論理の規則をすべて知らなくてもこの推論は正しいものと受け入れ、活用するだろう。
 知らないことがあるのは恥だろうか、それとも誇りだろうか。知らないことを誇るのが「無知の知」の通常の解釈である。だが、「知らぬが仏」が成り立つ状況では、ソクラテスはどのように言うだろうか。また、「地震予知は2割程度しかできない」という状況で、ソクラテスの考えを聞いてみたい。私たち現代人はソクラテスと違って、知らないことがあると心理的に不安になる場合が多い。「無知の知」と言うだけでいったい何か役立つようなことが導き出せるのか。知りたい好奇心や知らなければならない義務や責任があるとき、ソクラテスの格言は何かを教えてくれるのだろうか。
 「経験的な知識に完全なものはない」という主張は無知の知を具体的に表現した例文である。経験世界には私たちの知らないことがたくさんあり、そのことを知るのが上の主張である。だが、実際には眼前の対象についてまず知ったことを確認する。知識が完全でなければ使うことができないなどと考える人はいないだろう。不完全な知識と経験的に知った事柄を組み合わせ、それによって知ったことから既知の知識ネットワークに乗せて発展させるのがプラグマティックな知識の使用である。知ったかぶりしなければ知識を使いこなすことはできない。
 「知るとは何か」という問いに答えるために必要なのは「知の知」であって「無知の知」ではない。知らないことを知ることが哲学的な洞察の結果などと考えるべきではない。「知らないこと」は間髪入れずにわかることであり、心が確信できるほとんど唯一のものと言っても言い過ぎではない。
 文脈の導入は優れて人間的な行いであり、有限の能力しか持たない人間のなせる次善の仕業である。知か無知かと二者択一を迫るのではなく、文脈の導入によって前提付きの部分知を認めるのが人間である。部分的な知識というと確率・統計的な知識と思いがちだが、ある文脈の中での知識も部分的な知識である。Aの仮定の下で、BからCを証明できる場合、Cを知ることはABを仮定した上で言えることであり、それが「Cを部分的に知る」ということである。前提付きの相対的知識が文脈の導入によって行われるのである。これは神が行わないこと、人が行うことである。