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視覚経験は主観的か?

 私たちの視覚経験は客観的な科学的知識と違って主観的だと言われてきた。科学的知識と違って、主体的で個性的なのが人がものを見る経験だと信じられてきた。視覚をその「仕組み」と「志向的内容」に分けて、どれほど主観的か見直してみよう。
 眼はカメラと同じ構造をもち、視覚像は大脳内で電気的に処理される、といった仕組み自体は、私たちには直接見ることができず、それゆえ経験することができない。だが、その仕組みは科学的に実証された知識である。また、視覚は「何かについての」視覚であり、その「何か」が視覚の志向的内容。それは見えているものや風景で、私たちが直接に経験し、そこから知識や情報を獲得する源である。
 私たちは眼の構造や仕組みを直接に経験して、それを主観的に気づくことができない。視覚の仕組みは、外の世界の山や川、車や家と同類の存在からできているが、それらと違って、視覚の仕組みは見えないもの、意識できないものである。研究結果を利用し、実験や観測装置の工夫によってその一部は再現でき、あるいはCGで経験が可能になっている。眼の構造や仕組み、その働きは主観的な視覚体験の何に対応しているかを知ることが真に重要な仕事なのだが、今のところは客観的にわかる範囲での研究が先行している。
 一方、視覚の志向的内容は私の視覚の内容で、私だけが経験できるもので、それゆえ、主観的な意識である信じられてきた。こちらは私の私的経験を別の人にどのように伝えるか、経験させるか、が真に重要なのだが、これは私的経験のコミュニケーションの問題として様々な研究がなされてきた。
 では、視覚の志向的内容はどれほど主観的なのか。20世紀以降、写真や映画、テレビが発達し、映像文化が飛躍的に浸透した。戦後間もない映画館では映画の同じシーンに観客が一斉に涙する光景がよく見られた。映像と音を通じて、実際に自分がそこにいるかのように場面を楽しんだ。映像の編集に主観的なものを感じる人はいても、映像そのものに主観性を感じる人はいない。映画以前の写真や絵画を考えても事情は変わらない。描かれている人物や事件は知覚の志向的内容であり、客観的でなければ意味がないという状況で描かれたものである。古典的な絵画の志向的内容は描かれた人物や事件であり、観る人にそれらを正しく伝える目的があった。私たちに見えた通りに描くのが似顔絵や肖像画。風景はどこの風景かがわからなければならなかった。
 志向的内容は客観的であるだけでなく、科学的でもある。太陽や月、気候や季節、さらには色や匂い、それらが科学によって解明され、それがそのまま志向的内容となってきた。科学的知識こそが志向的内容を豊かにしてきた。視覚の仕組みが科学的に解明され、視覚が拡大され顕微鏡や望遠鏡につながっただけでなく、視覚の志向的内容も科学的知見によって豊かに、正確になり、視覚データがより精緻に特徴づけられることになった。
 このようにみてくると視覚経験は視覚の仕組みと視覚の志向的内容の両方で科学的知識に負っていることになる。つまり、視覚経験とはその肝心なものが客観的であり、主観的なものを見つけ、その存在理由を見つけるのが実は大変な経験なのである。

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雪舟 秋冬山水図)

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長谷川等伯 松林図屏風)

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伊藤若冲 群鶏図)

 そこで、真に「主観的」な風景などあるのだろうか?三つの印象的な絵が画家の主観的な風景ならば、主観性とは個性の別名となり、問いへの答えはYesとなるのだが…(他人の個性は理解可能、だから、若冲等伯雪舟の絵画を私たちは味わうことができる、それゆえ、答えはNoという方が正しいのでは…)
 (…そんな哲学詮議より、三者三様の美的感覚の凄さに圧倒される方が生きる喜びというもの。)