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何が生得的で、何が獲得的なのか?

(「本能を学習する:Hard Empiricism」の改訂版)
 「本能の学習」とは「丸い三角形」のように論理的に矛盾した概念だというのが常識。筋金入りの経験主義は「生得性」を否定し、生まれたときはtabula rasa(白紙)の状態で、すべては経験的に学習して獲得するものだと主張する。だが、どれほど訓練しても、空を飛び、水中で肺呼吸することはできない。経験は有限でしかなく、学習は後天的なものに限られる。また、人がもつ本能や生得的能力を学習によって自在に変えることなどできない相談である。
 私の主張は、本能は学習できる、学習しなければ私たちは本能を十分に発揮できない、というものである。私は経験主義者であり、学習が経験主義のエッセンスであり、私たちは何事も学習によってしか自分のものにできないと考えている。本能も生得的能力もしかり、というのが私の経験主義的な主張である。
 「氏か育ち」と問われれば、育ちがなければ氏もない、というのが私の立場。本能も学ばなければ形にならず、盲目のまま。「学ぶ」という本能は優れて人間的な能力であり、他のどんな能力より強力である。それゆえ、ここでの私の主張の主旨は「学習は他の何物にも還元できない、原初的な能力、真の本能」である。
 さて、哲学には「志向性(intentionality)」という言葉がよく登場し、それが意識のもつ特徴と声高に言われてきた。「何かについての」意識というのが意識の本源的特徴で、それが「意識の志向性」と呼ばれてきた。心的能力や心的機能についての一般名詞のほぼすべてはこの意味で志向的である。「本能、能力、感情、欲求、信念」等々、これらはいずれも「何かについて」の本能や信念である。志向的な心的働きは大抵生得的なものだが、心的働きと言っただけでは何もわからない。その理由は、例えば本能について、「何かについて」の本能は「何かについて」の部分を経験的に学習しなければ、その本能の肝心の内容が不明のままで、何もわからないからなのである。
 DNAには数学や物理学の知識は書かれていない(その理由は読者に考えてほしい)。学習本能をもつとしても、「何かについて」の学習が意味をもつには「何かについて」がわからなければならない。それは経験的に学習しなければならず、あらかじめDNAに書き込まれてなどいないのである。数論も幾何学もDNAには書かれておらず、学校で学習しなければならない(遺伝子の場合は大変微妙で、学習の志向的内容の一部は遺伝子に編成され直すことが可能)。
 学ぶとは「何かについて学ぶ」のであり、その学ぶ何かは学習の志向的内容。志向的な心的働きは学ぶことによってしか実現されない。これは至極当たり前のことで、相撲取りが強いのは生得的な素質に(その遠因が)あるとしても、稽古によってその素質を鍛えなければ強くはなれない。つまり、「相撲に勝つことについて」の生得的な素質は実際に稽古によって学習しなければ実現しないのである。
 志向的な学習と学習の行為、プロセスの仕組みは異なっている。学習内容と学習過程が違うのは当たり前のことだが、本能と私たちが呼んできたものの中ではっきりわかるのは学習の過程であって、学習の内容ではない。内容はDNAには組み込まれておらず、学習されなければ獲得できず、またその正確な内容は科学的追求によって経験的に知られていくものである。
 こうして、学ぶのは本能の志向的内容だということになる。「何かについて」の本能と言わなければ本能の意味が不明だということは、その「何か」を経験的に獲得しなければわからず、その最も単純明快な「わかり方」が知識として学習することなのである。

 「志向性」を真面目に考えて、活用してみよう。志向的な対象をもつ装置として意識や信念、感情や情緒、欲求等を考えるなら、それらは志向的対象を処理するための装置である。信念と欲求が心の大雑把な基本的機能。それら機能が働くための装置、カラクリ、仕組みは遺伝的で、生得的である。個々の信念や欲求がつくられるにはその製造装置が不可欠で、それら装置は複合的な情報処理装置の一部となっている。信念や欲求が「何について」の信念や欲求かは装置を見ていただけではわからない。それら「何」は心の中にではなく、外の世界の出来事や事件、対象やものなのである。
 通常の感情や欲求は(正常に働く)温度計に喩えることができる。温度につての知識を使ってつくられた温度計(勿体ぶって言えば、温度感知(測定)装置)や温度センサーは、温度を測る。それは私たちが感じる温感に対応している。温度計や温度センサーが「何か」の温度であるのと同じように、私たちが感じるのは「何か」の温感であり、いずれも環境のある性質である。生き物が生存可能な一定範囲の温度を測るために造られた装置は個々の信念や欲求を生み出す装置に対応している。温度に正しく反応する装置とその機能がある環境で実行できることは、何かを信じ、欲するようにさせる装置が正常に働くことと基本的に同じことである。だが、個別的な状況と温度の値は外部の環境についてのものであるように、信じ、欲するものは生得的ではなく、心の内にはない。「好きになる誰か」、「やりたい何か」、「意識すること」、「信じるもの」、これらはいずれも個別的な事柄であり、世界の対象、出来事である。
 装置を実装している生き物は、その装置の詳しい仕組みなど知らなくても、それを使うことができる。温度計の仕組みを知らなくても、温度を測れるように、怒りや悲しみの装置を知らなくても、怒り悲しむことができる。だが、好きになる仕組みがないと好きになりたい人を好きになれない。悲しみの製造装置がないと、悲しみを悲しむことはできない。それを確認するために次の二つの文を考えてみよう。

悲しみのターゲットがなければ、悲しむことはできず、初恋の人がいないと、初恋の感情は生まれない。

恋しいと思う感情を引き起こすには、その実現の仕組みが必要で、それがないと感情は生まれない。

これら二つの文はともに正しい。二つとも真であることが信念や欲求という心的装置が志向的であるということの意義なのである。

心的装置の間での選択によって進化が起こる。その際に、ceteris paribus(other things being equal)を援用して、同じ志向的対象を扱う装置の優劣を比較し、選択のメカニズムを考えることができる。装置の運命を左右するのはその志向的内容である。装置は使われることによってその結果がわかり、それによって選択されることになる。