時間と風土

 風土と言えば、『風土』(和辻哲郎著)を思い出すのは職業的な性なのか。現象学の時間偏重に異議申し立てをしたのが和辻だが、それはどう見ても失敗の試みだった。空間と時間という対比は極めて物理学的。風土や環境と歴史や経緯というと文系の語彙で、馴染みやすいとつい無批判に思い込んでしまいがちである。そんなことを懸念する必要など毛頭なく、いたって明晰判明なのが物理学的な時間と空間。なぜ、明晰判明かといえば、それらは数学的に表現できる数学的な概念であるから。一方、風土、環境、歴史、経緯は数学的に表現することが極めて困難で、それゆえ、明晰判明とは到底言えない。

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和辻哲郎

 物理学と歴史学が違うのは時間や空間の概念が異なるからなのか。「因果性」が二つを分ける分水嶺になっている。歴史とは因果的な変化の系列であるが、物理学が扱う運動変化は因果的でない数学的な言葉を使って表現できる。空間も然りで、幾何学的な空間が物理空間だとすれば、地理学や地政学といった研究が歴史学で扱う空間を構成している。そこでは地域、地方といった曖昧な概念が幅を利かすことになる。
 ところで、私たち自身はどのような時間概念、空間概念を日常生活で用いているのだろうか。その用法は多様で、いい加減、文脈依存的であり、一言で言い尽くすことができない曖昧模糊とした概念というのが時間や空間。日常の用法が柔軟であり、個人的用法の自由を許すことによって、ほぼ何でもありということになる。そのためか時間や空間の哲学が後を絶たず、諸説乱立が続く。
 和辻に戻り、風土再考も一考なのだが、日常生活での空間とは本来時間をたっぷり含んだものである。幾何学的な空間と風土は似ても似つかぬもの。時間を「純粋持続」として理解しようとしたのはベルクソンだったが、そこに空間の要素は入っていない。少なくても、時間をベルクソンのように空間的要素を取り除いて捉えることは可能だが、日常生活の空間から時間の要素を取り除くことは「日常空間」を歪曲してしまうだろう。  

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(Henri-Louis Bergson)

 時間と空間を区別するという物理学的な習慣がそのまま日常生活に侵入し、日常の世界でも時間と空間は別物だと信じ込むことになってしまった。脱構築ではないが、物理学に抗することなく、ごく普通に「持続」や「風土」を手掛かり、ヒントにして考えてみることが大切なのではないか。