表情と感情

(1)表情や感情のプラグマティズム
 人は感情を醸成し、それをエネルギーにして生きる。感情が有用で、適応的なのは、つまるところそれが進化の結果だから。表情はその感情を表現する言葉の一つである。表情を使うことによって、人は自分の感情を知り、つくり、そして表現してきた。感情と表情の間には直接的で密接なつながりがある。だが、二つの間に正確な1対1の対応がある訳ではなく、怒りも苦しみも、そして悲しみも同じような表情で表現される場合がしばしばある。
 行為を生み出す感情、社会がつくり出す感情、それら感情は本能的であるだけでなく、学習されたものでもある。プラグマティックに感情や表情を考え、次にそれらの心理学、さらにはそれらの進化を問題にすることが、感情と表情の関係を順当に理解する仕方になるだろう。それによって、心を読み解く、心を探る、心を解釈することが可能になっていく。さらに、表情の解読と解釈、表情の文法が模索され、それが広範な応用につながることになる。
 私たちの表情を表現するには動画が適切なはずだが、これまでは肖像画、写真、絵画といった静止画で表情が描かれてきた。20世紀後半から表情を表現する術は静止画から動画に変わった。感情についての情報を運ぶのが表情で、表情はコミュニケーションの伝達装置、道具である。実際の文脈の中の表情とは、その同じ文脈の中の感情の表現である。悲しみ、哀れみ、惨めさ、悔しさといった心の状態を表現した一つが表情と受け取られてきた。そして、その表情は言語に似た、次のような独特の性格をもっている。
 普通表情はそれをもつ自分には見えない。相手がいて、その相手が自分の表情を読み取る。相手の表情が何を伝えたいか理解し、それを自分が使って相手に自分の気持ちを伝える。役者にとっての表情は、感情や欲求を伝える、表現する重要な小道具であり、表情の表現主義的性格が強く現れている。普通の人にとっての表情は、心の状態のサインであり、それを読み取るという印象主義的性格をもつものである。この表現主義印象主義の巧みな一致が進化であり、表情のプラグマティズムや文法は表現主義印象主義の合体なのである。このような表情の特徴は言語に類似しており、言語程は精緻でなくとも、言語より素早く、直感的である。
(2)表情と感情の習得
 私たちは赤ん坊の時以来人の顔を見て、その人の気持ちを知り、自らも表情をつくることによって他人に気持ちを伝えることを学んできた。この学習は、他人の表情から情報をどのように読み取り、自ら表情をどのようにつくって他人に情報を伝えるかということだった。一人で生きない限り、表情を媒介にした情報交換は一生の間続くことになる。その仕組みの基本は言葉を使った情報交換と同じである。他人の言葉から情報を手に入れ、自分の言葉を使って他人に情報を伝えていることが言語的な情報交換であるが、その仕組みは表情も同じなのである。むろん、言語的情報交換の方が格段に優れていることを私たちは知悉している。
 そのためか、言語の習得より早く表情の習得は始まる。赤ん坊は新生児期から笑う。その笑いには新生児期から生後2ヶ月あたりまでにみられる「新生児微笑(生理的微笑)」と、生後3ヶ月以降にみられる「社会的微笑(あやし笑い)」の2種類がある。生理的微笑は生後0~2ヶ月にみられる本能的な行動で、「自分が笑うことで周囲が優しくしてくれる」という、自己防衛のための適応だと考えられている。新生児はまだ自分で意識して笑うことはなく、泣く、寝る、おっぱいを飲む、排泄するといった生命維持に関わる本能的な行動だけを日々行っている。だから、感情と表情の間の関係はまだつくられていない。

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 一方、社会的微笑は生後3ヶ月頃の赤ん坊にみられる行動で、視力が発達することによって周囲の表情の変化を感じることができるようになり、笑顔をひとつの情報として認識するようになる。身近な人と同じ表情を作るように脳が指令することによって、赤ん坊の社会的微笑が起こる。

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 赤ん坊は新生児微笑によって周囲の反応を確認し、次第に笑顔の意味を理解していく。生後3ヶ月頃になると、自発的に笑う「社会的微笑」が現れはじめる。それは大人が笑うと笑い返すことや、母親の顔をみると笑顔になるなどの自然な反応であり、まだそこにははっきりとした感情はない。赤ん坊が声を出して笑うようになるのは、早くて生後5~6ヶ月頃から。感情表現が豊かになり、生後6~7ヶ月頃には、あやすと声を出して笑うことが増えていく。
 このような半ば本能的な表情学習は言語学習に似ているが、さらに一段階上の学習がある。作家、詩人が意識的に言語表現をマスターしようと自ら訓練をするのに似て、役者、俳優は意識的に表情表現をマスターしようと練習する。これは本能的な学習とは一味違って、意識的、恣意的な学習であり、技を厳しく磨くことである。

**ある若者の神や仏の表情からの妄想
 神や仏に感情はあるのか。神の愛、慈悲深い仏という表現は神や仏にも感情があるように思われる。そして、その感情は神像や仏像の顔(や身体)に表情として刻み込まれていると私たちは解している。愛や慈悲の心は大変人間的であり、それゆえ宗教は私たちに人間的な救いをもたらすものと信じられてきた。
 神像や仏像の顔や表情は異なる環境、異なる時代のもとでは大きく異なる。例えば、ギリシャの神々の人間的な姿の像があるかと思えば、仏像をつくること自体が原始仏教にはなかった。ブッダの教えは口伝が許されても、ブッダの像はつくること自体がブッダ自身によって禁止されていた。偶像などブッダにはとるに足らないもので、必要なことは真理の悟りのみだった。仏像自体が仏教を維持管理するためのプラグマティックなもので、当然仏像の姿恰好も人間の気持ちを考慮して、つくられている。だから、本来仏像は人間的なのである。木で彫られた能面を動かすのは能楽師だが、能面の一部、例えば目や口を動かせるかといえば、それはできない。その制約のもとで能楽師は能面の上下運動で表情をつくろうとする。一方、仏像は不動で、普通は誰も動かさない。それは静止したままである。表情は動きの中で生まれ、それを私たちは受け取る。顔だけでなく、身体全体の動作、所作が主体の感情を表現していると学習してきた。そして、動かないものはむしろ心の内の感情を隠すものと考えられてきた。では、神や仏は自らの心の内を隠しているのか、神像や仏像はそもそも表情をもつのか、といった問いが出てくる。
 そんな厄介な問いはさておき、千手観音像(例えば、蓮華王院三十三間堂千体千手観音像)、五百羅漢像、兵馬俑(軍隊)などを画像を見ながら想像してほしい。それらをどこの立ち位置から見て、それぞれの像の顔にどのような表情を読み取るか、様々な統計データが得られている。そこから私たちの顔貌認知と表情の関係を読み取ることができる。

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 さらに、仏像が3次元の像ではなく、動く像になり、表情も姿勢も姿も変化することができるとしたら、一体どのような仏像が想像されるのだろうか。「人間擬き」の姿を想像するのは私だけではないだろう。声まで出し、体臭があったとしたら、一体どのような反応があるだろう。
 人のコピー、人間擬き、ヒューマノイド、どう表現しようと、人が人工的につくられたなら、仏像ではなく仏のコピーも同じようにつくられるだろう。「神擬き」の像は静止しておらず、自由に動き、表情をもち、話し、考えることだろう。人と人のコピーの区別がつかず、チューリング・テストに合格するなら、仏と仏のコピーの区別も私たち人間にはできず、仏と仏のコピーの何が違うのか見つからないのではないか。これは妄想でしかない。しかも、誤った妄想でしかないと思いたいのだが…