錯知

 知覚を理解するうえで錯視、錯聴は重要な役割を演じています。それと同じような役割をもつのが、知識を理解する上での錯知あるいは錯識です。「錯知」は耳慣れない言葉ですが、その中身をまず知っておきましょう。
 錯視が「見る」ときの錯覚、それに対応するのが、「知る」ときの錯覚で、それが「錯知」です。錯視は誤った知覚ではありません。見ている対象をそのまま正しく知覚してはいないのですが、誰もがそのように見てしまい、その見えが正しいと思ってしまいます。平行線が正しい数学的対象であるにも関わらず、見えている線は平行には見えないのです。つまり、視覚装置を正しく使用することによって、視覚の対象は正しくないように知覚されるのです。

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(中央の赤い点を見つめていると…)

 さて、知覚ではなく知識について考えてみると、「思い違い」など始終起こります。「勘違い」や「記憶違い」といったことが起こり、それは視覚や聴覚の錯視、錯聴によく似ています。
 さて、知識について錯知を考えてみましょう。アリストテレスの自然学は私たちの目的的な世界像が知覚される世界に合致する仕方でつくられていて、常識的な知覚像を説明する理論になっています。重いものは知覚でき(感じることができ)、その重さを本性として持つものは、思いゆえに下に向かって落ちていきます。その落下運動は私たちが眼で見て確かめることができます。これを疑うデータは知覚レベルには何もありません。ですから、アリストテレスのこの考えが誤りだということは錯視の場合に似ていて、「落ちる」という知覚は正しいものではないにもかかわらず、私たちには「落ちる」ようにしか見えないのです。
 これはニュートンのリンゴの落下の説明で正され、重力を使った説明に代わることになります。これでアリストテレス自然学の錯知は是正されるのですが、ところがニュートン力学は別の錯知をもっているのです。それが古典的な世界像を生み出すいくつかの仮説で、後に相対性理論量子力学によって是正されるものです。いずれ、丁寧にどのような意味で錯知なのか考えてみたいと思います。
 さらに、理論の解釈が二つ以上あり、いずれも誤ってはいないと考えられる場合、それら解釈は錯知でしょうか。一つの理論に対して解釈が複数あり、しかもそれら解釈が異なっているのですから、どれかが正しく、どれかが誤っている筈です。そのような理論の代表例が量子力学で、複数の異なる解釈が存在し、錯知と結びついているように見えます。
 無神論者から見れば、宗教的な信念や教説は錯知そのもので、思い違いの最たるものということになります。科学哲学者にとっては伝説や神話も同類の誤りだと考えることができます。普通の人でも伝承や言い伝えは錯知の塊だと思う筈です。錯視と同じように錯知が溢れているのなら、人々はどうしてそのことを議論し、語らないのでしょうか。真偽の議論をする上で錯知は重要な役割を演じています。真偽の決定に必要な経験的なデータは知覚と知識の微妙なバランスのもとで判断されている場合が多いからです。