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「私は、好きだ」と「私が、好きだ」

 とても意味深なのか、ほぼ無意味なのか、よくわからない二つの表現。これらは、電車のつり革広告の表現。実は上善如水の広告の中のものなのだが、これらを眺めて、何がメッセージなのかわからなくなり、考え始めたのが発端。そもそも「上善如水」を「じょうぜんみずのごとし」と読める若者は少ない。まして、その意味は何かとなれば、「越の寒梅」や「八海山」といった叙事的な名前に比べるとわかりにくい。その意味は、理想的な生き方(上善)は、水のようであること。中国の思想家老子の思想を表現する一文。そして、「上善如水」は文字通りの飲み心地をもつ越後の銘酒。
 私の関心は酒ではなく、広告の中の文「私は、好きだ」と「私が、好きだ」の違い。広告には別々に書かれているので、二つは異なることを表現している筈なのだが、私には何が異なるのかわからず、内心穏やかでなくなったのである。並みの日本人として、こんな簡単な文の違いがわからないというのは恥ずかしいことこの上ない。そこで、二つを合体してみると、「私は私が好きだ」となり、これは普通の日本語の文で、私にも十分過ぎる程よくわかる。
 だが、「私が、好きだ」と「私が好きだ」の違いとなると、判然としない。それでも、二つが違うというのが私の直感。「私が、好きだ」は私には「私は、好きだ」と同じ意味と感じられる。つまり、ここでの「が」は主語についた助詞。だが、「私が好きだ」は独立した文というより、文の一部で、これだけでは意味不明。というのも、「彼女は「私が好きだ」」かも知れないし、「彼女を「私が好きだ」」かも知れないから。
 広告をつくったライターは、「私は、好きだ」と「私が、好きだ」を「私は(上善如水を)好きだ」と「私は私が好きだ」の意味で対比させたのではないかと推測するのだが、どうして「、」を両方に入れたのか私にはわからない。「、」を入れることで二つの謂い回しは同じことを意味してしまうことを考慮に入れなかったようである。もし新しい「、」の使い方を提唱するのであれば、つり革広告は相応しくない。
 電車に乗ってつり革広告を見たことで、私の心は言葉の攻撃にたじろいでしまった。感性の変化についていけないのである。私には「私は、好きだ」と「私が、好きだ」の違いがわからないのである。私の日本語もすっかり錆びついたものである。
 上善如水は私の故郷の酒。だから、つり革広告に上善如水があることは実に嬉しいことで、そのためについしっかり読んでしまったのである。広告とすればそれだけで私の心に届き、大成功なのだろう。余計なことだが、誰にも「私は、上善如水が好きだ」、そして、私は「上善如水を好きな私が、好きだ」という風に読まれるなら成功なのか。
 広告は若い女性とワインのような上善如水のマッチングがミソなのだが、これからの寒い冬の夜は熱燗。その時はどうしても故郷のオーソドックスな日本酒。