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表情や身体表現から感情を探る、あるいは表情や身体表現から感情を学ぶこと(2)

 原始感情についての生得的な原始文法があることをまず認めよう。そこから現在の感情の文法がつくられる。それらは言語の文法には及びもつかないが、後天的に情報を獲得していくことによって、私たちの中に自然の感情が生まれてくる。そして、文化や歴史の違いに応じて感情の異なる表現形式がつくられていく。言わずもがなのことだが、感情の表現の形式や内容は、学習によって自分の感情として意識されるものになる。私たちは原始感情もそれを表現する形式に強い影響を受け、本来の姿を思い起こすことなどできないが、そのことは、生得的な普遍文法を意識できないこととほぼ同じである。私たちは生得的にもっているものを直接に意識することができない。私たちが意識でき、具体的に感じることができるのは後天的に学習したものだけなのである。つまり、感情、そしてその表現は学習によって具体化され、経験できるようになる。
 あなたが「人類最後の一人」になったとしてみよう。あなたは自分が「人類最後の一人」になり、大いに悲しむ。たぶん、その悲しみを涙を出したり、泣き叫んだりして表現するはずである。だが、どうしてあなたはそんなときにも「誰が見ても、それとわかる悲しみの定型」を忠実になぞるのか?誰もいないのだから、そんなことをする必要は全くないのである。純然たる悲しみの感情があるだけでよく、それを身体化する必要はないのである(何しろ見ている人は誰もいないのだから)。だが、誰も見ていない場所においてでさえ、「ああ、この人は悲しんでいるな」と他人にわかるような表情や感情表現を外に出すのである。そうせざるを得ない。というのも、表情や身体表現抜きで、輪郭のはっきりした感情をもち、それを維持することが私たちにはできないからなのである。日本語を話すどころか、自然言語を話す人が誰もいなくなっても、きっとあなたは日本語で嘆き悲しみ、日本語で叫ぶに違いない。それと同じことが表情や感情表現についても言えるのである。
 このように見てくると、感情とは(言語が話し手と聞き手がいることで存在するように、役者と観客がいることで存在する)社会的な記号なのである。そして、表情や感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンを賦活させるから、他者のうちに同質の感情を作り出す。自分の内面には「そんな感情」がなくても、それを真似て、演じているうちに「そんな感情」が自分のうちにも、そして自分を見ている人のうちにも生まれてくるのである。この仕組みも言語とほぼ同じである。記号体系としての言語はそれを使いこなすことによって人の意識を支配し、感情や欲求だけでなく、思考も生み出すのである。
 このような見方を最近の政治家に関する議論に応用してみよう。他人の心を直接に操作し、動かしたい人、つまり政治家は、怒り、悲しみ、苦悩の演技に熟達していなければならない。政治家は役者と演出家の一人二役をこなさなければならない。感情表現に熟達した政治家が「過剰に感情的」に見せるのは、計算の上のことで、当たり前なのである。以前の東京や大阪の知事は怒りを剥き出しにすることによってメディアの注目を集め続けたが、これは計算ずくのパフォーマンス。新しいアメリカ大統領のように「怒り、叫ぶ人」は衆人の耳目を最優先に集めることができる。「怒る政治家」たちは、それを熟知し、巧みに利用しているのである。
 さて、ここで具体的な次元に眼を転じてみよう。政治家に限らず、メディアに登場する知識人たちも、感情を抑制する努力を怠るようになってきた。たぶん、その方が自分たちの言い分を通す上で効果的だということを学んだからだろう。「子どもらしく、大人らしく」「男らしく、女らしく」振る舞わなければならないという社会的規範がどれほど人の心を抑圧し、傷つけてきたかについて、私たちは飽きるほど聴かされてきた。「らしく」という抑圧的行動規範こそが父権制度を支えてきたのだから、人々は「らしさ」の呪縛から解き放たれねばならない。人は「自分らしく」ありさえすればよい。それ以外のすべての社会的行動規範は廃絶されるべきである。こんな主張が繰り返されてきたように思える。だが、そんな主張を声高に叫んできた人々は表情や身体表現を通じての感情の習得ということについてどこまで真剣に考えていたのだろうか。
 私たちは子どものときは「子どもらしさ」を学習し、それから段階的に「男らしさ、女らしさ」や「生徒らしさ」、さらには「年長者らしさ」や「老人らしさ」といった社会的な役割を学習していく。さらに、育児や老親の介護を通じて、「子どもに対する親らしさ」や「親に対する子どもらしさ」といった親子の間の感情技を巧みに学習していく。また、職業によって独特の精神や感情、信念を身につけていく。そのようにして習得されたさまざまな「らしさ」という広義の表情が私たちの感情を細かく分節し、身体表現や思考を多様化し、深めてゆく。感情は学習によって成熟していき、歳をとっていくのである。
 「感情の学習」を中止して、「自分らしさ」の表現を優先させてゆけば、幼児期に最初に学習した「怒り、泣く」といった「原始感情」に限りなく近いものだけを選択的に発達させた人間が出てくるかも知れない。そのような人間であることは、今のところ、まわりの人々の関心と配慮を一身に集めるという「利得」をもたらしている。「怒っている人間、泣いている人間は最優先に面倒をみなければならない幼児」という刷り込み、思い込みが生きているからである。だが、現在の私たちの社会では、「過度に感情的であることの利得」に多くの人々がうんざりし、私たちの社会が「大人のいない社会」になることを危惧し始めている。
 怒りも悲しみも行為に近い。何かをするかのように私たちは感情をもち、それが実際に何かをするきっかけとなる。また、何かをしたいという欲求は行為と見分けがつかないほどである。原始感情は遺伝的な感情である。赤ん坊の「泣く」、「笑う」はそのような原始感情である。それが表情や身体的表現によって学習され、私たちが共有する感情となる。感情は優れて社会的なのである。