予言と預言:神の冒涜?

(「神を冒涜する」とは言葉や行為によって神に侮辱を与えることだが、単に神の存在を否定したり,特定の信条を疑ったりしても、必ずしも冒涜とは言えない。)
 聖書は最初の「創世記」から最後の「ヨハネの黙示録」まで、66の書巻からなっている。 その中で、特に旧約聖書の「ダニエル書」と、新約聖書の「ヨハネの黙示録」の二つは世界の終末についての預言を含んでいる。創世記は国造り神話に似て、人類や民族の起源を伝えるもので、いわば過去の伝承記録にもなっている。過去の歴史に関する逸話、エピソードは私たちに心理的な驚きを与えても、不安を与えるものではない。だが、未来のことになると心理的な不安が中心になる。なぜなら、未知のものは(期待だけでなく)不安を生むからである。神は歴史的なことに巻き込まれる筈がないのだが、既知から未知への人間的な歴史変化の中に巻き込まれるかのようなストーリーが最近の黙示録絡みのハリウッド映画の定番になっている。
 旧約は過去の物語だと多くの人が思う。過去の物語は安心して読めるという特徴をもつ。と言うのも、過去は決定していて、疑う余地はなく、既述のように心理的な不安を引き起こすものはないからである。だが、黙示録は預言であり、その内容は当然ながら未来の事柄というのが誰もが考えること。過去と未来の暗黙の違いがもつ心理的な効果は計り知れないほどに大きい。旧約でも日本神話でも、読みながら不安を覚えることはない。だが、黙示録や人類の未来については誰もが不安をもつ。
 では、科学理論、それも最も基礎的な万物の理論(TOE;Theory of Everything、自然界に存在する4つの力、つまり電磁気力、弱い力、強い力、重力を統一的に記述する統一場理論の試み)はどうか。過去、現在、未来の区別がこの理論から導き出せるのだろうか。過去、現在、未来という区別などなく、それゆえ、過去についての遡言も、未来についての予言も、さらには現在の説明も、いずれも違いなどないのである。始原も終末もなく、同じ理論を使って何ごとも同じように説明されることになったら、ハリウッドの映画はみな荒唐無稽なものになってしまう。
 歴史と運命とからなる波乱万丈の物語など登場しないのが物理学での万物の理論。過去や未来、現在という時制は常識概念でしかなく、物理理論では因果的な物語は存在せず、状態の時間的変化が主題。始原も終末も単なる状態でしかない。心理的な不安はあくまで「心理的」なものでしかない。
 ところで、「預言」とは何か。科学では「予言」が有用な説明として重視される。予言と預言は発音は同じだが、何が違うのか。聖書の中では、文字通り神の言葉を「預かって」、それを人々に伝えた人が預言者である。つまり、預言者の使命は「神から預かった(託された)言葉を人々に伝えること」。一方、科学理論が未来の出来事について主張することが予言、それが過去の出来事なら遡言である。神や仏の預言と科学理論の予言は確かに異なり、似ても似つかぬものと言うのがもっともらしい常識。だが、実はよく似ていて、区別がつかない、と言うのが私の主張。神、仏、万物の理論の預言あるいは予言は、論理的には同じ役割をもつメッセージである。次の三つを比較してみよう。

神がする予言
私たちがする予言
理論がする予言

聖書では神が予言し、それを私たちが預言する。それと同じように考ええば、理論が予言し、それを私たちが預言する。つまり、理論の予言、予想を私たちが言葉で伝える。神も理論も何かを予言、説明するが、それが私たちには未知である場合、既知にするために「預言」が使われる。神や理論の予言を預言として受け取る私たちはそれを基にして自らの生活設計を立てる。こうして、神と理論の予言は本質的に異なるのではなく、本質的には同じものだと考えることができる。だが、神と理論が根本的に異なるのは、理論は被造者たる私たちがつくったものであること。それゆえ、絶対的な神に対して、理論は相対的で、誤る可能性をもち、別の理論によって否定され得るものである。
 キリスト教での「預言書」の解釈を辿ってみよう。「預言書」には、「主は、こう言われる」という表現が無数登場する。預言者の任務は、自分の意見を語ることではなく、神が自分に「伝えよ」と言った言葉を伝えること。いわば、預言者は「神の口」。神の言葉、神の思いを伝える人であり、だから「伝言者」。預言者の務めは、(1)神から預かった言葉を、その時代の人々に伝えること、 そして(2)はるか将来に起こる出来事を告げる(予告)こと、のいずれかだった。旧約の「ダニエル書」を著したダニエルや、新約の「ヨハネの黙示録」を記録したヨハネの場合は、上記の(2)の要素が強かった。未知の未来の幕を開いてくれる神、それが「ダニエル書」と「黙示録」では特に強調されている。
 「黙示録」は歴史の中で様々に論じられ、聖書の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。それら解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約できる。
 預言書としての解釈は、「黙示録」を「ダニエル書」などと同類の終末預言の一つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書と捉える。マルティン・ルターらのプロテスタントの黙示録理解は歴史主義解釈であり、起こっていない未来の出来事を預言として与えられたと考える。この立場では、未来にキリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の身体の復活、最後の審判、天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられている。
 文学のジャンルとしての解釈では、「黙示録」は、紀元前2世紀以降のユダヤ教で起こった終末思想と、それに従って書かれた「ダニエル書」などの一連の黙示文学の影響を受けたキリスト教的黙示文学であると考える。この主流の解釈に沿ってみていくと、「黙示録」が「ダニエル書」などの一連の黙示文学と同じように、「幻のうちに受ける啓示」、「歴史区分の提示」、「神の完全な支配の実現」などのパターンに沿って書かれているということがよくわかる。 
 普遍的テーマのイメージ化としての解釈は新しい。20世紀以降、「黙示録」を「善と悪の対立」および「善の最終的な勝利」という普遍的テーマを著者のイマジネーションによって自由にイメージ化したという解釈である。
 「黙示録」の解釈は預言書、文学、普遍的イメージの三つにまとめられたが、万物の理論の解釈は複数あったとしても、その幅は遥かに狭い。「黙示録」の「解釈」と同じに「解釈」という語を使えば、万物の理論の解釈は一つである。