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版画(2)

 北斎と広重はこれぞライバルという典型なのだが、大抵の人は二人とも好きなのではないか。甲乙つけがたしの二人なのだが、浮世絵の売れ行きは随分と違っていた。
 広重は寛政9年、幕府御家人の火消し同心、安藤家に生まれる。だが、10代で不幸が襲う。広重、13歳で両親が死去。両親の死後、広重は収入を補うため、浮世絵師の道に進む。師事したの歌川豊広。広重は歌川派にこだわらず、独学で浮世絵を学び始め、円山応挙の影響を受ける。写生を重視した応挙の絵との出会いが、広重の原点となった。天保2年、満を持して広重が描いたのが「東都名所」だったが、売れ行きは悪かった。なぜなら、「東都名所」と同じ年に出た北斎の「富嶽三十六景」シリーズのためである。その大胆な筆致は江戸っ子たちを魅了し、広重の浮世絵はその陰に隠れたてしまった。30代の広重より、72歳の老人の方が革命的だったのである。

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葛飾北斎 富嶽三十六景 「神奈川沖浪裏」)

 北斎に衝撃を受けてから2年後の天保4年、広重は版元「保永堂」から東海道をテーマにした浮世絵を依頼されたのだ。この時、広重は53の宿場を歩いたとされている。当時の旅行ブームが広重に追い風となる。富士信仰が浮世絵の中に名所絵というジャンルの確立を助け、広重の「東海道五十三次」は、江戸っ子の旅情をかきたて、大ヒットとなった。こうして形勢は逆転、北斎が切り開いた「風景画」は、広重の独壇場となったのである。

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歌川広重 名所江戸百景 「亀戸梅家舗」)

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ゴッホ 「ジャポネズリ―:梅の開花」)

 北斎と広重、どちらが真の勝者なのか。北斎は生涯にわたり強く躍動する波にこだわった。対する広重は、写実を基本とし、穏やかな波を描いた。北斎と広重の風景画対決からから20年が過ぎた嘉永6年に黒船が来航。北斎と広重は西洋の印象派に影響をあたえることになる。陶磁器を収集していたフランスの画家ブラックモンはその包み紙に衝撃を受ける。その包み紙が「北斎漫画」だった。その後、ゴッホやモネは、北斎、広重の構図や、描かれている風景そのものに惹かれていく。そして、二人は印象派革命の引き金となったのである。
 私は今の日本人の「原風景」をつくり出したのは応挙、北斎、広重だと思っている。雪舟でも光琳でも等伯でもなく、彼らが日本人の「風景」の生みの親。室内から野外へ、野外から観光へとつながり、印象派によって花開く風景画のきっかけが日本にあったというのは誇らしいことではないか。