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『沈黙』

 遠藤周作の小説『沈黙 』をマーティン・スコセッシ監督が映画化し、その紹介が正月2日にNHKで特集された。小説『沈黙』は、遠藤が17世紀江戸初期のキリシタン弾圧について、史実に基づいて創作した歴史小説。実在するイエズス会の日本管区長代理を務めたポルトガル人司祭フェレイラが登場し、彼の棄教を聞いた弟子のセバスチャン・ロドリゴが真相を求めて日本に潜入。隠れキリシタンへの布教活動を行うが、裏切りによって捕らえられ、踏み絵を踏むことになるロドリゴの心の葛藤、神への問いかけを描き、神への愛が浮き彫りにされている。

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 私が倫理学を習った先生が三雲夏生、カトリック倫理学が専門で、遠藤周作と同い年。1950年二人はフランスへ留学したが、確か戦後最初のフランス政府の給費留学だったと聞いている。
 『沈黙』は出版当初、カトリック教会から大きなバッシングを受け、長崎や鹿児島では禁書になったという。今でこそ世界中で翻訳され、戦後の日本文学の代表作として国内外で高く評価されているが、ノーベル文学賞を逃したのもカトリックの正統的な解釈を外れていたためと言われている。
 自らの神への愛を守るためには、信者たちを苦しめなくてはならない。信者たちを救うためには、自らの神への愛を捨てなくてはならない。このジレンマに直面し、ロドリゴは踏み絵を決意するが、その理由はイエスの言葉を聞くという「内的体験」にあった。ロドリゴは、「踏むがいい」というイエスの言葉を聞き、自分は神の教えに従っていると確信する。棄教後日本人として暮らす中で、彼はカトリック教会が非難しようと自分はイエスの教えを守ったのだと確信して生きる。
 だが、カトリック思想からするとこの考え方には二つ問題がある。(1)「イエスの声を直接聞いた」と主張する点で、キリスト教の思想に反すること、(2)内的体験であるために事実かどうかの確認が不可能であり、それを前提にあらゆる思想を許容してしまうこと。キリスト教では人間は神の声を直接聞くことができない。だから、神の言葉とされる『聖書』を読み、神の代弁者たる教会が重視される。だが、ロドリゴは「自分は神の言葉を直接聞き、それに従って絵を踏んだ」と言っており、これは異端。次に、ロドリゴが自分は神の教えを守っていると信じる根拠が「踏み絵の直前のイエスの声を聞いた」ことにある点。それを聞いたのはロドリゴだけで、他の誰も聞いていない。ロドリゴが聞いたのは幻聴かも知れない。この考えをさらに拡張すれば、「神の声を聞いた」と言えば、どんな思想でも許容されることになる。
 聖書や教義といった確認可能なものではなく、「私に神の声が届いた」という確認不可能なものを根拠に信仰をもつと、最終的にあらゆる思想を許容することになる。これが『沈黙』の問題点なのだが、この指摘は「信仰とは何か」を改めて問い直すことになる。実証的に確認できるものがロドリゴの信仰上の主張に必要となれば、それは宗教的な要請なのだろうか。信仰における神と個人の間の繋がりは神と個人の心の間のもので、そこに教会や聖書は本当に必要なのかという問いでもある。