「沈黙-サイレンス-」

 1971年に篠田正浩監督により、「沈黙 SILENCE」のタイトルで映画化された。遠藤周作は篠田と共同で脚本を担当。だから、今回のマーティン・スコセッシ監督による映画化は二回目となる。
 踏み絵を踏むロドリゴに踏み絵のイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語り、またキチジローの顔を通して「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」、「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」と語りかける。
 だが、信仰者にとって踏み絵を踏むということは、「自分はキリスト教徒でない」ということを行為によって宣言することで、踏み絵は単なる偶像ではない。聖書には次のように述べられている。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイによる福音書10:32~33)
 1962-1965年の第二バチカン公会議カトリック教会はプロテスタントを異端視する態度を改める「エキュメニズムに関する教令」を採択。エキュメニズムとは「カトリックプロテスタントの教会一致促進運動」のことで、遠藤はこの運動に積極的に関わっていった。だから、『沈黙』においてもエキュメニズムが意識されている。そこでは、「カトリックプロテスタントの教義の一致」、つまり「カトリックの義化とプロテスタントの義認の一致」が表現されている。「義化」というカトリック教義は「転ばない」、「棄教しない」ことで、「強い信仰」を示し、「神が許したまう」ということ。これに対してプロテスタントの「義認」の救済論は「転んでも」、「棄教を認めたとしても」というもので、「弱者の信仰」を示し「神が義と認めたまう」ということ。ロドリゴが「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」と語り、カトリック司祭として「許しの祈り」をキチジローに与えるが、これはカトリックプロテスタントの救済論を一致させた文学的表現だった。だが、このようなエキュメニズム的な文学的表現は、イエズス会系の聖職者にとっては革新的な文学表現として理解できたが、カトリック保守派は「義化」の救済論の立場から遠藤のエキュメニズム的文学表現を異端と捉えたのである。