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「知覚は何か」と問うこと

 これこそ哲学的な問いの典型に見えるが、実のところ何が問われているのか全く不明な駄目問題。知覚の仕組みが問われているのか、知覚される内容が問われているのか、はたまた知覚の役割や意義が問われているのか、判じ物といったところである。そのことがまた何とも哲学的で、そんなところが哲学がバカにされてきた理由となっているのも頷けるというものである。
 「知覚は何か」が曖昧この上ない問いであっても、私が知りたいのは「何を知覚しているか」という意味での「知覚は何か」。その問いに対して、「樹を見ている」、「歌を聴いている」といった知覚対象についての直接的な答えから、「連続した運動を見ている」、「鮮烈な赤い血を見ている」といった知覚内容に踏み込んだ答えまで、知覚しているものの中味は実に多種多様。だが、ここで考え直してみるべきなのは「連続した運動」、「鮮烈な赤い血」という表現が知覚しているものの正しい表現になっているのかどうかである。
 「連続」は見えるのか、「血」だと見ただけで言えるのか、こんな風に問われると、「連続」や「血」は知識でしかなく、知識は見えず、それゆえ、見ただけで「連続」とも「血」とも言えないことがわかる。「連続」を見ることなど私たちにはできず、私たちにできるのは「連続」概念を学んで、動いているものを「連続として」見ることぐらいが関の山なのである。見ているものが「連続」だとわかるには知識が必要で、「連続」は直感できない。連続した運動が知覚できるなら、不連続の運動も知覚できるはずだが、連続か不連続かの区別さえ実は知覚できない。「血」はなおさらで、見ただけなら赤いインクと血の区別はできず、改めて検査をしなければならない始末である。知識と状況、そしてデータや情報がなければ、見ているものが血だとは判断はできないのである。つまり、血は見るだけでわかるのではなく、判断されるものなのである。
 連続など実際の知覚には不要で、運動している物体の速さや長さがわかればとりあえずは十分というのが日常生活。だが、その生活を支えているのは科学知識。その知識の基礎にあるのは「実数の完備性」、「関数の連続性」に基づく運動変化の表現で、その「連続」概念を前提にして山縣君や桐生君の連続的な100m走が知覚されるのである。また、血液についての知識と鑑定技術を使って血痕の分析が行われ、事件の解決につながるのである。
 わからないもの、未知のもの、正体不明のものとはどんな風に知覚されるのか。うまく答えられない訳は、わからないものを表現する仕方がよくわからないからである。大きさ、形、色、匂い、味といったものがわかるとしたら、それらこそが知覚の中味。表情や振舞い、ムード、雰囲気、気分といったものは知覚されるとしても、うまく言語化できない。感情や欲求は総じてうまく表現できないのである。
 知覚は見方によっては実に貧弱な情報しかもっていない。情報は言語的な表現に引きずられるところがあり、言語化できない知覚情報はこれまで十分に取り扱うことが厄介な事柄だった。だから、知覚の中味を豊かにするのは知覚ではなく、知識であり経験だった。知覚は情報、知識、記憶に支配され、自ら何を知覚するかは自らだけでは表明できないのだった。伝統的に知覚が解放されるのは芸術の世界だったが、絵画や音楽が知覚対象についてどれだけ明らかにしたかと問われると、その答えは千差万別で、どうまとめたらよいのか窮してしまう。
 「何を知覚しているか」はまだまだケーススタディが必要ということが結論。