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持続可能なシナリオが孕むパラドクス:持続し続けるものなど地上にはない

 「「環境保全の試み」という試みはパラドクスを内に含んでいる」と言うと、また哲学の人騒がせな虚言かと勘ぐられるのが落ちだが、実は生者必滅が成り立つどのような事柄にも共通のことに過ぎないのである。医療の理想は病気による死者の撲滅であるが、一方で人は必ず死ぬのであり、医療活動は達成できない理想を掲げるというパラドクスを内に秘めたままの活動であり、未完の崇高な理想を掲げている。
 環境保全活動もこの医療活動に似ている。環境は変化し、現状をそのまま維持・保全することは不可能であるにも関わらず、私たちは自らが生存する環境を守ろうとする。それゆえ、かなわぬ夢を求めるという点で、二つは同じパラドクスを内蔵した活動なのである。死ぬこと、変わることが運命であるにもかかわらず、その運命自体を否定しようとするかのような活動が二つの共通点になっている。実のところ、このような例は私たちの周りに溢れている。人のつくったものはいつか壊れるが、壊れない自動車や飛行機をつくりたいと技術者は夢見る。その夢は矛盾を孕んでいるが、だからこそ夢なのであり、その夢を一途に追い求めるのが人間なのである。その夢は拡がり、自然遺産・文化遺産として過去をも保存し、美意識まで動員して保存の正当性を訴えてきた。
 だが、実のところ世界での主役は「変化」、変化こそが実在で、持続は仮象。地球の自然環境は変化し続けてきた。その一例が大気。大気中の酸素は、生物が作り出したもの。現在の地球の大気組成は窒素が78%、酸素が21%、アルゴンが0.93%で、二酸化炭素は約0.03%程度とごく僅か。酸素を作り出すメカニズムは植物の光合成で、光合成を行うシアノバクテリア(ランソウ、らん藻)は少なくとも28億年前にはすでに登場していた。こうしてできた酸素は、まず地表を酸化させることで消費された。古い時代の地層には赤色土層(赤鉄鉱(Fe2O3))が見られる。22億年前~19億年前になると、縞状鉄鉱層(縞状鉄鉱床)が大量に形成されるようになる。縞状鉄鉱層は鉄の酸化物を大量に含むもので、現在の世界中の鉄鉱石の90%以上を供給している。この縞状鉄鉱層は19億年以降はほとんど見られなくなる。つまり、このころまでは植物がつくる酸素は、鉄などを酸化させることに消費され、大気中にはたまらなかった。だが、酸化されやすいものの酸化が終わると、今度は大気中に酸素が急速にたまり出す。
 こうしてできた酸素は、生物の体を作る有機物にとっては危険な存在だが、酸素を利用(呼吸)すると、エネルギーの生成が効率的にできる。つまり、大気中の酸素濃度と生物の進化は相関している。細胞の中に核を持つ真核生物は、ある程度高い酸素濃度を必要とする。また、真核生物のミトコンドリアは酸素を使ってエネルギーを得る器官である。一番古い真核生物の化石は約21億年前。

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ミトコンドリア

 6億年前には多細胞生物が登場する。これも酸素濃度の増加に関係している。さらに、4億年前には陸上で生活する生物が登場。これは、大気中の酸素濃度が十分に高くなり、それに伴って成層圏のオゾン濃度も高くなったことを示している。成層圏のオゾンは、生物、特に遺伝をつかさどるDNAを損傷する。
 生命の持続可能な仕組み、変化を起こす仕組みを説いた自然選択説は進化のシナリオを幾つも提供するが、そのシナリオは試行錯誤を含み、そこでの失敗のシナリオは種や集団の絶滅を意味していて、成功のシナリオはごく僅かである。このようなシナリオは物理学にはない。保存則が成り立つ物理世界には成功や失敗の違いはない。成功・失敗は生死のある生物世界に存在するもの。成功と失敗の関係は実に微妙。生物が生み出した世代交代は「個体の死による別の個体の生」というサイクルを生み出し、生と死、つまりは成功と失敗を周期的な循環によって乗り越えた姿なのである。
 それでも、生死の循環は個々の個体には恐ろしいもの。そのため、生死のある現象は古来私たちの関心を集め、恐れや慄きをもって捉えられてきた。生きる喜びが詰まった生活を奪うものが死であり、その死の恐怖が宗教を生み出した。実際、生死に最初に正面から向き合ったのが宗教だった。恐怖、苦痛、苦悩への人間的な対処、治療、癒しが宗教の実質であり、その活動がついには魂や精神へと向かうことになる。
 だが、宗教も倫理も生死に関して決定的な主張をすることができなかった。理由は簡単で、二つとも死の実際のメカニズムを知ろうとせず、死を瞑想し、死の美学、死の哲学に明け暮れ、死の思索に耽ったからである。だが、生死の謎はそのような宗教、哲学、美学では解けない。だから、それは科学的に解明されることになる。その結果、生死は神秘でも謎でもなくなり、自然現象の一つとして理解できるようになった。だが、私たち自身が生死をもち、いずれは死ぬことを自ら受け入れることは簡単なことではない。家族の死、自らの死は不安や葛藤を生み出す。生命現象の解明と自らの生命の容赦ない終わりが矛盾を孕むことを直観しながらも、後世への遺産として生命現象を解明することが使命であると思うのがまともな科学者。
 地球温暖化に対する対策シナリオをつくる際も、絶滅がほぼ必定という中での対策シナリオである。このパラドクシィカルな状況は医療と何ら変わらない。地球温暖化が起こっていて、このままでは人類の存在が危ぶまれるとしてみよう。地球規模の温度変化によって起こる結果に対して、日本の、しかも一地方で一体どんな対処ができるか。例えば、ニホンライチョウを必死に守ろうとしても、それが温暖化によるものならば、一地方でできることはたかが知れていて、ライチョウの絶滅を記録し、何世代か存続する手立てを講じるくらいしかできないだろう(注*参照)。温暖化によって世界が持続不可能になるなら、そもそも一地方や数人のボランティアに何ができるというのか。温暖化が世界全体の問題であれば、それは全体で対処しなければならないことである。

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火打山の二ホンライチョウ

 大規模な変化がもたらすものは不確定である。不確定な未来は予測が不確定ということであり、それが未来への希望となり、未来への楽観主義がここに生まれる。確定的な未来像が予測できないから、未来は希望をもってもよいものだというのが楽観主義。だが、人間は必ず絶滅し、太陽系は壊れる、といった悲観主義が併存する。楽観的、悲観的だけなら、大した問題ではないのだが、不確定さは無責任と結びつき、人は無責任さを進化の途上で獲得したようである。官僚は責任を取らないと人は貶すが、人はそもそも無責任な生き物。先祖の犯した罪の責任は自分にはないと思っているし、未来の子孫の生活に責任をもたなければならないという自覚も曖昧である。責任は自分の知る範囲でとればいいというのは正に自分勝手な人間的な判断。役人の無責任は正に人間の無責任のささやかな一例に過ぎない。責任を取らないのは役人の本性ではなく、人間の本性なのである。
 最後にささやかな私の希望。天変地異の中で風評が飛び交い、確かなものがない状況、頼れるものが不明な文脈でも、未来を考え、悩み、苦しむことを厭わないのが人間。
 
注*
 妙高戸隠連山国立公園の分離独立を機に、環境省長野自然環境事務所と妙高市は、同公園の火打山(標高2462メートル)周辺に生息し、絶滅が危惧されているニホンライチョウの保護に向け、共同で本格的に取り組む。
 ライチョウは国の特別天然記念物火打山周辺が日本最北限で最少の個体群の生息地。2007年から山頂付近一帯でライチョウの数を調べている国際自然環境アウトドア専門学校(妙高市)の長野康之自然ガイド・環境保全学科主任によると、2009年に33羽以上確認できたが、年々減り、2014年は13羽しか確認できなかったという。
 なぜ減り続けるのか、専門家でも原因は分かっていない。2014年3月、国内32カ所目の国立公園として分離独立したのを機に、同省は山頂付近のライチョウの生息環境を把握し、ライチョウの減少原因を突き止めようとしている。