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 多様性についての問題と解答例

(二回に分けて述べた話を一つにまとめ、加筆訂正したものです。)

 「生物多様性(biodiversity)を守ることが生態系を持続可能にする鍵だとすれば、一つの社会で人種の多様性(racial diversity)を守ることがその社会を持続させる鍵である。」という言明が真かどうか答えなさい。
 この言明はif thenの形の条件法の文になっていて、言明が真であれば、正しいと一般的に思われている前件「生物多様性(biodiversity)を守ることが生態系を持続可能にする鍵だ」と組み合わされて、後件「一つの社会で人種の多様性(racial diversity)を守ることがその社会を持続させる鍵」が真として得られることになります。そして、それは人種の多様性を擁護することが正しいことを保証することになります。人種の多様性を容認することについてのこれほど単純明快な論証は見たことがありません。その上、これは大学入学試験の小論文の問題にしてもよいような問題で、読者にはまず気軽に解答を試みてほしいと思います。
 余計なことですが、既存の習わしに従い、解答のためのヒントを幾つか挙げておきましょう。まずは、語彙の正確な理解。これは初歩的に見えて、実は意外に厄介なのです。「生物多様性」は純粋に科学的概念かと問われれば、そうではないと答えるしかありません。それは擬似科学概念(pseudo scientific concept)。「人種の多様性」は複数の人種の人たちが拮抗して共存するということの記述でしかありません。さらに、「持続可能性」も擬似科学概念であり、いずれもその使用には細心の注意が必要です。
 次は「多様性」の多様な意味に注意しなければなりません。生物が多様であることは、一つの生態系に複数の生物種が共存することであり、人種が多様だということは一つの社会に複数の人種が共存することです。では、「生物種(biological species)」と「人種(race)」は同じような概念なのか、それとも違う概念なのでしょうか。違うなら、どのように違うのでしょうか。ダーウィン風に言えば、種差と変異(variation)の違いということになるのですが…
最後に、この問い自体が好ましいものではないかも知れないという疑問があります。「真偽」について問うのではなく、両者の関係について問うべきだという意見が予想できるでしょう。問い自体に関する疑問があるのはよくあることですが、その種の世間ずれした配慮も必要かもしれません。
 さて、解答のための前置きはこのくらいにして、実際の解答に取り掛かってみて下さい。
<解答スケッチ>
 「生物多様性(biodiversity)を守ることが生態系を持続可能にする鍵だとすれば、一つの社会で人種の多様性(racial diversity)を守ることがその社会を持続させる鍵である。」という言明が真かどうか答えなさい。これが私の出した「多様性についての問題」でした。読者に解答を考えてもらうだけでなく、私自身も解答を考えるのでなければ公平ではありません。そこで、私自身の解答のスケッチを記しておきましょう。高校生向きではありませんが、杓子定規に私の解答のエッセンスだけスケッチしてみると、次のようになります。
 Aが「生物多様性(biodiversity)を守ることが生態系を持続可能にする鍵」で、Bが「一つの社会で人種の多様性(racial diversity)を守ることがその社会を持続させる鍵」で、A→Bが真なら、現在Aを真とする経験的事実が圧倒的だという中では、Bが論理的に真だということになってしまいます。でも、Bが真だと相当に多くの人が主張するにもかかわらず、それを否定する白人至上主義者が後を絶ちません。ということは、Aを真だとする白人至上主義者はBを真だとは認めませんから、彼らはA→Bを真だとは認めないということになります。つまり、Aが真でもBは真でないことがあるということです。
 あるいは、リベラルな人たちが考えるようにBが端的に真ならどうでしょうか。その場合は、Aの真偽に関係なく、A→Bは真です(どうして?)。では、Bが真である可能性はあるのでしょうか。Bは「人間の集団の中の変異を守ることがその集団の持続を可能にする」ことであり、「集団が変異を含むほど進化の可能性をもつ」ことにつながっていて、これは正にダーウィンの考えでもあります。
 ところで、生物多様性と変異の存在は異なった事柄です。生態系の中に異なる生物集団が共存することが生物多様性の重要な意味の一つですが、変異は一つの生物集団内の個体差(個人差)のことですから、二つは違った事柄なのです。ですから、生物多様性と変異の存在の間には論理的な繋がりはありません。つまり、A→BはBが真であるゆえに真だということに過ぎなく、AとBの間に「ならば」を使う経験的な理由はないのです。
 以上のような部品のスケッチを組み合わせると、多くの人が容認可能な答えを考えることができるのではないでしょうか。現在支持の多い解答は白人至上主義者の解答ではなく、ダーウィン風の解答です。ダーウィン風の解答は確かに論理的な形式としてはA→Bを真だとするのですが、肝心なことはAとBが論理的に無関係で、端的にBが真だということです。
 生物多様性と人種の多様性はDNAレベルでは共通する特徴を指していて、人種の多様性は生物多様性の一部だと考えることができます。一方、「民族」の多様性となると、文化的、歴史的な違いが主になり、DNAレベルの話ではなく、歴史や伝統の話になるのが普通です。すると、例えばDNAレベルでは遺伝の「混合説(blending theory)」は誤っていますが、文化レベルとなると混合遺伝を生物進化のように否定することはできなくなるように見えます。文化進化の何か一つでも生物進化から外れるものがあれば、A→Bは成り立たなくなるのでしょうか。成り立たないような錯覚を起こしているのは私たちの自由意思です。私たちが自由意思に従って社会や文化の進化を引き起こすのであれば、そのような自由意思は生物進化には存在しないので、A→Bが成り立たないと思ってしまいがちです。既に述べたように、BはAとは独立に確認されるのであれば、自由意思の有無はA→Bの真偽とは無関係なのです。
 次のような推論も上の話と同じようなことです。「AではDNAレベルの事柄が重要でも、Bでは情報の伝達、学習が主役であり、それゆえ、生得的なものと獲得的なものの区別がAとBの違いとなり、A→Bは誤りである。」
 論理的な話に終始しただけと感じる人がきっと多い筈です。これが哲学の悪い癖で、屁理屈だらけと貶されるだけで、決して好印象は与えません。でも、論理的な事柄の背後にあるのは科学的事実とそれに準じる概念です。それらをどのように正しく使うかという点で、論理がひょっこり顔を出すに過ぎず、それを書いただけなのです。
 大切なことは問いとその解答に登場する諸概念と私たちとがどのようにつき合うかということです。つまり、生物多様性、持続可能性、人種の多様性といった疑似科学概念と、これまで私たちが長い間使ってきた自由、平等、人権といった市民社会を支えてきた概念との確執をきちんと腰を据えて考えることです。