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コイン投げは確定的、それとも不確定的?

1はじめに
「確定的」とか「確率的」、あるいは「決定(論)的」とか「非決定(論)的」と言われる事柄がどのようなことなのか明らかにしてみたい。「確定的なのか、それとも確率的なのか」という問いは基本的で単純な問いなので、十分な議論が展開され、満足できる解答が直ぐに見出せそうであるが、本当にそれが正しいかどうかの明晰・判明な判定は意外に厄介なのである。そこで、曖昧で灰色の議論や結論を実際以上に際立たせることによって、何が問題なのかを浮き彫りにすることからスタートしてみよう。
次のような還元主義的な推論は哲学では珍しいものではない。

(1)古典力学ラプラス的な普遍的決定論を含意する。
(2)生物学は古典力学に還元できる。
(3)それゆえ、生物学ではラプラス的な普遍的決定論が成立し、したがって、生物学における確率の使用は単に知識の不十分さの表明に過ぎない。

この推論は生物学だけでなく、マクロな特殊科学に対しても成立する。そこから、マクロな世界での確率の使用はミクロな世界での使用と違って知識の不十分さによるものであり、確率の解釈は主観的な解釈ということになる。だが、生物学者にとってこの結論は決して受け入れられるものではない。遺伝の確率モデルが力学モデルに還元できないことを示すことができれば、この推論の誤りを示し、生物学の自律性を示すことができる。そこで、集団遺伝学のモデルやコイン投げのモデルを通じて、上の推論が正しいかどうかを考えてみよう。

2任意交配モデルについての生物学者の主張
生物学者は任意交配モデルが確率的で、そこでのメンデル法則は確率過程を述べたものであると考え、その具体的な内容を1 遺伝子座2 対立遺伝子の場合について、次のように説明した。三つの遺伝子型(AA、Aa、aa)について、両親の遺伝子型に応じて子供の遺伝子型の確率がメンデル法則によって計算できる。この任意交配のメンデル的な過程では親の遺伝子型から子供の遺伝子型の確率は計算できるが、その逆、つまり子供の遺伝子型から親の遺伝子型の確率は計算できない。同じ原因から同じ結果という古典実在論を支える因果律は、同じ原因から同じ確率の結果と一般化できそうであるが、同じ結果から同じ原因という逆の因果律古典力学では成立しても、メンデル法則による確率的な一般化では成立していない。この点に注目してメンデル集団の任意交配はコイン投げと同じ型のモデルをもつことを確認しようと生物学者は考え、コイン投げと、進化の要因が一切働いていない遺伝子プールからの任意交配を取り上げた。コインは区別がない二枚を同時に投げ、出た結果が表の場合をA、裏の場合をa と記すことにすると、次のようなコイン投げの系列が得られる。

  (Aa), (aa), (aa), (AA), (Aa),......

また、任意交配の場合も、それぞれの遺伝子をA、a とすれば、

  (aa), (AA), (Aa), (AA), (Aa),......

といった系列が交配と共にできあがっていく。 遺伝子A とa の割合p、1 - p を0.5とすることで、公平なコイン投げの場合に合わせることができる。しかし、二つの実験は全く同じではない。遺伝子プールは有限個の遺伝子しか含んでいない。それに対してコイン投げは望めば何回でも行うことができる。そこで、遺伝子プールの遺伝子総数の半分の回数、つまりは同じ回数だけ一回の実験を行うようにした。したがって、一回の実験の二つの系列は同数の対からなっている。遺伝子プールのサイズは様々なので、それに合わせて異なるサイズの遺伝子プールについて同じ条件のもとで実験できる。さらに、適当な回数(集団の数の半数未満)をあらかじめ決め、その回数に合わせてコイン投げと任意交配の実験を行えば、浮動の効果を見ることができる。この簡単な実験を生物学者は二つのことを確かめるために行った。任意交配する、進化要因が全く働いていない集団でも遺伝的な浮動が働き、それは純粋に確率的な現象で生物にだけ特有な現象ではないこと、そしてその系列がMarkov chain であることを示すことであった。サンプリングエラーである浮動は、「有限の集団に浮動がない場合」といった仮定が原理上できないという点で自然選択とは随分異なっている。実際,試行回数をあらかじめ決めた場合の何回かの系列の相対頻度は決して0.5 ではなく、その周りに散らばっていた。得られた系列の分布の特徴は独立試行のMarkov chain、つまりはrandom walk になっていた。その裏付けは、コイン投げが確率論の教科書で代表的な例になるほどに、その構造がよく知られている点にあった。そこで生物学者は任意交配が独立試行であり、またMarkov chain と同じであることを次のように考えた。コイン投げも任意交配も系列の長さn に独立に、定常な遷移確率をもつMarkov chain となる。二つの状態で、Xnを時点n での状態とすると、

 P(Xn + 1 = 1 | Xn = 0) = p  P(Xn + 1 = 0 | Xn = 1) = q

がそれぞれの遷移確率となる。(ここでp、q を0.5 とすればこれまでの場合に対応する。)初期分布P(X0 = 0), P(X0 = 1)が与えられれば、逐次各状態の確率が計算できる。例えば、初期分布P(X0 = 0) = q/(p + q), P(X0 = 1) = p/(p + q)から出発すると、

 P(Xn = 0) = q/(p + q), P(Xn = 1) = p/(p + q)

となる。コイン投げや任意交配は連続的に変化するのではなく、 1 から0 へ、あるいは0 から1 へと飛躍的に変化するのでMarkov chain のなかでも、純飛躍的な過程である。random walk は運動の変化や分布を拡散(diffusion)現象として捉える方向に、Markov chain は変化の確率的な分布を確率過程(stochastic process)として捉える方向にとそれぞれその展開のされ方は異なるが、基本的な立脚点は同じである。その立脚点とは、ある事象から次の事象が起こることの間には確率的なつながりしかないということである。生物学者にとって重要であったのはこの確率的なつながりであり、それが任意交配の場合にも成立するということであった。そこで彼女は次のように結論した。

有限集団の任意交配は、独立試行からなるMarkov chain であり、コイン投げやrandom walkと同じように確率的な現象である。そして、有限の集団ではいつも浮動が存在する。

さらに生物学者は任意交配が確率的であることから、進化は確率的であると結論した。浮動は自然のどのような交配集団にも必然的に生じ、そのような交配集団が進化を生み出しているのであるから、生み出される結果はそこに確率的な過程を含むことになり、そこから「進化は確率的である、あるいは確率的な要素を含む」という命題は経験的に正しいと結論した。
 
3生物学者に対する古典的無知からの反論
ラプラスの魔物はコイン投げについての完全な知識をもち、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、生物学者はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、確率的にしか捉えられない。魔物はコイン投げでのバイアス(非対称性)を決して見逃さない。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。これは理屈の通った話に思える。というのも、これは実は物理学の基本原理であって、対称性の原理(Principle of Symmetry)と呼ばれてきたものの一例なのである。その原理は、

結果に現れる非対称性は、原因にそれを引き起こす非対称性がある 、

という内容である。この原理が成立している限り、魔物は結果の裏、表というバイアスの予測を原因のバイアスに注目することによって物理学的に説明できる。
以上のことから、魔物は確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべての系列について正確な予測を行うことができる。つまり、コイン投げの過程は全く決定論的である。それゆえ、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになる。この説明は確率の主観的解釈(Subjective Interpretation)と呼ばれてきたものに基づいている。その解釈によれば、私たちが確率概念を使う理由は私たちの古典的無知のためであり、もし十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はない。さらにメンデル法則の方向性についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は結論した。対象の時間発展を述べる法則に対して、メンデルの法則は単なる収支決算の報告の仕方に過ぎず、厳密な意味で法則ではない。
そもそも確率が古典的無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればできる。遺伝法則はそのような類の規則であるというのが魔物の結論であった。ラプラスの魔物は、任意の正確さで初期条件を測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。これが決定手続きを考えたときの魔物に課せられる条件である。元来、決定論は実在の決定性を主張するもので、私たちの認識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に計算可能であるという定理によって強められる。ただ単に予測が可能というのではなく、実際にそれを計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視され、このような決定論=予測可能性という認識的な決定論理解が、魔物の担ってきた役割なのである。

4ラプラスの魔物は遺伝の確率モデルを扱えるか?
前節の議論はいかにももっともらしく見える。偏りのないコインであれば、各々裏表の出る確率は1/2 である。このコイン投げを力学的に扱えば、誰がいつコインを投げるか、どのくらいの力でどの方向に投げるか、着地する面や空気抵抗はどうか、等々の多くのことを考慮して、コインが投げられてから着地するまでの軌跡が描かれることになるだろう。仮にそのようなモデルがつくられたとしてみよう。 コイン投げの確率モデルはこの力学モデルに還元できるだろうか。(力学)還元主義者の主張はこの還元が可能というものである。確かに、想像上は可能のように見える。これが誤っているというのがこれから述べることである。コイン投げの力学モデルは想像できるが、コイン投げの確率モデルをその力学モデルに還元することは上手く想像できない。コインを投げると裏か表が出る。そこで今裏が出たとしてみる。すると、力学の鉄則に従って裏の出た理由は原因に求められる。これは物理学全般に成立している対称性の原理の一例であった。表ではなく裏が出たのであるから、そのバイアスのある結果の源は原因のバイアスにある。裏が出た場合、コインを投げるときの条件に裏を結果するものが含まれており、それゆえ、コイン投げというシステムの時間発展によって裏が出たと考えられる。これが裏の出るコイン投げの初期条件である。ここで忘れてならないのはこのコイン投げは特定のコイン投げであり、1 回毎にその力学的な記述は微妙に異なっている。2 回目にコインを別の人が投げた場合には、異なるコイン投げの力学的な記述が得られる。とにかく、このようにして私たちはコイン投げの力学的なモデルを確かに想像できる。このようなモデルとコイン投げの確率モデルを比べてみよう。
コイン投げの確率モデルは裏と表の基本事象からなっている。これら基本事象の集合を考え、その部分集合の全体が事象を構成し、それら事象に確率測度が与えられている。1 回の偏りのないコイン投げでは各基本事象は1/2 という確率測度をもつ。このモデルはコイン投げの時間発展を述べたモデルではない。コインをどのようにいつ投げるかといった具体的なことについては何も述べていない。コイン投げの時間的な変化は、したがって、このモデルからは何も言えない。唯一言えるのは、偏りのないコインという記述だけである。
これら二つのモデルは互いに両立するのか。私たちはそれぞれのモデルを想像できるし、その想像は単なる想像ではなく、それぞれ力学、確率論という理論的な裏付けをもっている。地震がどのように起こるかという経緯とそれがどのくらいの確率で起こるかということは両立すると自然に考えられているし、毎日の天気もその時間的な変化とそれが起こる確率は同じように並列的に考えられ、そこに何か矛盾があるようには受け取られていない。その理由は、私たちが力学的なモデルと確率的なモデルを時間をずらして適用することによって両方が同時には適用されないように工夫しているからである。「元旦は晴れる」という事象は元旦以前には確率的な事象と解釈され、元旦、あるいはそれ以後には実現の経緯が記録として書き記されることになる。同時に二つのモデルを併用するのではなく、時間をずらして別々に使うことによって両立させている。もし時間をずらさなかったら、一つの現象に対して二つのモデルがあり、それらモデルは異なることを主張していることになる。一方は決定論的に現象が生じることを、他方は非決定論的に生じることを主張している。一つの現象に異なる二つのモデルがあることに対して次の二つの態度が考えられる。

(1) 態度1:モデルの一方が正しく、他方は誤っている。大抵の場合、力学への伝統的な信頼から誤っているのは確率モデルであるとされる。そして、その誤りは文字通りの誤りというより、私たちが確率モデルを用いるのは事前に十分な情報をもっておらず、不完全な情報のもとに確率概念を不可避的に用いざるを得ないからであると説明される。
(2) 態度2:二つのモデルは私たちの視点の相違であって、両立すると考える。視点の相違は、モデルの全く異なる組み立てから説明される。現象を眺める私たちの視点には今の場合、二つの異なる視点があり、それらは一方が正しく、他方が誤っているというようなものではない。錯視図形を見る際に、一方の見方が誤っており、他方の見方が正しいのではないように、それは単に視点の違いに過ぎない。

二つの態度のいずれに軍配を上げるか、あるいは第三の態度を取るべきか、その決着は確率モデルが力学モデルに還元できるかどうかを考えた上でつけることにする。

5公平なコイン
ところで、そもそも偏りなくコインを投げることはできるのか。もし、裏か表のいずれかが出て、かつ対称性原理が成立していれば、偏りのないコイン投げは不可能である。裏か表のいずれかが出るということが偏りの存在を含意するからである。これが意味しているのは、確率モデルの設定が力学モデルの設定と異なるということである。したがって、単純に確率モデルを力学モデルに付随させることはできない。確率モデルと力学モデルの出発点の違いが単純に一方を他方に付随させることを阻んでいる。「偏りなくコインを投げる」ということは力学モデルをどのように工夫してもモデルとして実現することはできないが、確率モデルではそれが可能となる。確率モデルにおける「偏りなくコインを投げる」という事象は物理的に実現可能なことではなく、私たちの約定である。この約定が経験的に正しいものかどうかは当の確率モデルがコイン投げの実験に合うかどうかに依存している。「偏りのないコイン投げ」という初期条件の設定は力学的なモデルのどこにも還元できない。これだけでも還元可能性に関しては致命的であるが、次の理由も同じように重要である。
力学モデルは個々のコイン投げについてのものであると述べた。それに対して確率モデルはどうであろうか。それは何回という指定を明確に含んでいない場合が多いし、コインを投げる順序は普通問題にしない。一方、力学モデルではこれらが必然的に付き纏う。一方は振る順序や回数が曖昧であり、他方はそれらが正確でなければならない。このような二つのモデルの間にどのような還元を考えたらよいのか思いもつかない。
結論に至る前に上の議論への反論を考えておこう。それは次のような反論である。

(反論)
コイン投げに使うコインに物理的に偏りがない、そして偏りなく投げるという仮定を置くことがそもそもできるのか。もし偏りのないコインの偏りのないコイン投げが、幾何学的対象としての三角形が物理的に存在しないように、物理的に存在しないとしたら、確率モデルの組み方自体が物理的に実現可能な組み方に制限され、「偏りなくコインを投げる」というモデルは取り除かれ、物理的にありえないことになる。したがって、力学モデルで「偏りなくコインを投げる」という初期条件がないのはむしろ正しいのではないか。実際にコインを投げる場合、コインの上の面は表、下の面には裏というように非対称の状態からコインを空中に投げなければならない。裏表の区別のあるコインは対称ではない。確率モデルは偏りのある、非対称的なコインを偏りがないとみなすという点で幾何学的な理想化によるモデルであるに過ぎない。

(返答)
個々の確率モデルをつくるのに「偏りなくコインを投げる」ということは不可欠でないどころか、モデルの定義上必要でさえない。バイアスのあるコイン投げでも一向にかまわない。バイアスがあれば、それを考慮した確率測度を定めればよいだけである。そのような多様な確率モデルの組み方の中に「偏りなくコインを投げる」場合が含まれているだけである。それが重要であるのは、力学の法則を思い出してみればよい。力学の法則はいずれも理想的な条件の下での法則である。実際には空気抵抗や摩擦、重力のために物理的な状態変化そのものの法則ではない。それはまさに理想化された条件の下での法則である。そのような理想化された法則をもとにつくられるのが力学モデルであった。確率モデルも力学モデルと同じように理想化された場合を考えることに躊躇する必要はない。それどころか、そのような理想化された条件は確率モデルを理論的に扱う際に不可欠である。「偏りのあるコイン投げ」の場合は反論が主張する通り、特定の偏りを初期条件にするような力学モデルをつくることができる。肝心なのは、「偏りのないコイン投げ」という場合が特定の確率モデルでは必要なくても、確率モデル全体について考える際には不可欠であるという点である。
以上のことは確率モデルを力学モデルに還元することが不可能であることを示している。「偏りのないコイン投げ」に象徴される確率的な事態、特に任意交配についての確率モデルを力学モデルに還元することは不可能である。したがって、情報欠如のみによる確率モデルの使用という考えは否定される。二つのモデルは根本的に異なるモデルであるから、力学モデルの不完全なモデルが確率モデルではない。では、この還元不可能性をもたらしたものは態度2で述べられた視点の相違であろうか。私は視点の相違であると思う。しかし、視点の相違とはそもそもどのようなことを意味しているのか。視点という哲学者にとって都合のよい言葉は視点にまつわる問題の解決を阻んできたように思えてならない。力学モデルと遺伝の確率モデルに執着して、そこでの視点の相違とは何かをじっくり考えてみる必要がある。この視点の相違は、自然選択を力学的な力に似たものとし、力学モデルを手本にしたモデルで考える場合と、自然選択をバイアスのかかったサンプリングとし、確率的なモデルで考える場合とに大きく分かれるほどの重要性をもっている。

このような議論はフラストレーションが溜るだけである。コイン投げは一体確定的なのか、それとも確率的なのか、はっきりしない。また、確定的とはどのようなことなのか。確率的とはどのような意味なのか。すべてが曖昧模糊としている。コイン投げという実に簡単な出来事がどのようなものか、それがわからないというのはとても気になることである。

(1) 確定的とはどのようなことか
(2) 確率的とはどのようなことか
(3) 二つの違いは何か

これらのことをこれからじっくり考えていこう。このような曖昧な事柄を合理的な論拠に基づき、明晰に議論を展開し、判明な結論を得るというのが哲学のギリシャ以来の伝統だった。その歴史を念頭に置きながら、真相に迫ってみよう。ここまで述べてきた内容は決して誤っていない。曖昧で、ぼんやりしているだけである。それらを予備知識として以後の議論を展開していこう。また、コイン投げについては特別に1章を設け、ここで十分に解明できなかった多くの点を再考して見よう。

6コイン投げの現在
 コイン投げの物理学について、Fordはそれまでの議論がずっと曖昧であった理由を説明するような、次の文で議論をスタートさせる。

“Probabilistic and deterministic descriptions of macroscopic phenomena have coexisted for centuries.”([Ford], p.40)

ニュートンが決定論的な『プリンキピア』を書いたとき、ベルヌーイは確率に関する数学的な議論を展開していた。マクロな現象についての決定論的記述と確率的記述が両立するかどうかという問題を、コイン投げが確定的なのか、確率的なのかという問題として取り上げ、決定論、非決定論、自由といった哲学的な事柄、そして自然選択と浮動の関係を考え直す契機にしてみよう。その際の基本的な構図を提供する文献はKellerの論文で、その議論の枠組みが現在でも通用しているように思われる([Keller], [Mahadevan and Yong])。この構図を示すのが次の文章である。

Why is the outcome of a coin toss random? That is, why is the probability of heads 1/2 for a fair coin? Since the coin toss is a physical phenomenon governed by Newtonian mechanics, the question requires one to link probability and physics via a mathematical and statistical description of the coin’ s motion. ([Mahadevan and Yong], p.66)

決定論的なコイン投げの結果がなぜランダムと考えられるのか。コイン投げが古典力学の法則と初期条件によって記述できるにも関わらず、なぜコイン投げの結果はランダムなのか。それがランダムなら、どのようにコインが投げられるかに関わらず、なぜ結果が一定の確率をもつようになるのか。最後に、コイン投げの結果に一定の確率があるなら、それはどのように計算できるのか。このような問題が私たちの好奇心をくすぐる。
コイン投げ研究の現状を振り返っておこう。物理学分野の日本語の文献も含め([水口])、主要な文献では確率過程としてのコイン投げと決定論的なコイン投げがどのように両立するかが考察されている。個々のコイン投げの決定論的な過程は、自由落下過程と衝突過程の二つに分けられ、それがどのように記述できるか考察される。初期条件空間のベイスン が確率的な結果を保証してくれる。決定論の立場から考えられるランダム性、蓋然性の起源は、初期条件を与える際の精度とベイスン構造の特徴的な長さとの相対関係にあると考えることができる。

(ケラーの式の展開は省略)

Kellerから始まるコイン投げの力学的な説明はほぼ完璧という印象を与える。表か裏という結果を引き起こす初期状態の集合を決めることができ、そこから表か裏への写像が定義されると、ほぼ自動的にそれらの確率が50%であることが計算できる。だが、この力学説を見直すと幾つかの点が浮かび上がってくる。それはマクロな統計的事態に関する事柄である。
確率分布の存在は純粋に決定論的な立場からはどこからも入ってこないし、どこへも出ていかない。確率分布の導入はad hocで、力学的観点からは出てこない。さらに、この分布は何の分布なのか不明のままである。 力学は分布の存在そのものを説明できない。Kellerは分布の数学的問題に対して極限を使った論証で扱うが、そこに登場する極限は実際のコイン投げとは何の関連もない、ということである。図の白と黒の分布領域を正当化する手立ては力学にはない。

以上の物理学的なコイン投げの話は巧みに出来上がっているが、表題の問いについては十分な解決にはなっていない。コイン投げが古典力学に従う決定論的な過程であるという説明と、コイン投げの結果がランダムで確率的な予測に従うという説明が両立するような状況がいかにして可能かを一見説明しているように思われるかもしれないが、確率的、不確定的、ランダムであることの説明は「繰り返し投げられるコイン」という前提によって支えられており、そこでの「繰り返し、反復」ということがなぜ起こるのか、どのように起こるのかの説明がこれまでの議論の中には見当たらないのである。そこで、この点を中心に再考してみよう。

7リンゴの落下からコイン投げへ
リンゴの落下そのものを確率的なプロセスだと考える人はまずいない。だが、コイン投げとなれば、すぐにその確率モデルを想像するのではないか。リンゴとコインのどこを見比べても、それらの間に古典的な決定論的過程とランダムな確率的過程の違いを見出すことはできそうもない。サイコロと普通の立方体の場合も似たようなものである。リンゴが着地する状態が二つに分割できる、例えば、表面に書いた文字が見えるかどうかで二分できれば、コイン投げと同じことになるのではないか。しかし、誰も何度もリンゴを落とし続けないし、リンゴの落下は典型的な自由落下であるとみなされてきた。
何度も投げることができることによって、投げる際の初期条件の集合を想定することができる。何度も投げることを時系列に従って1回毎に線形に並べれば、それは決定論的な因果的過程とみなせるのだろうか?それは明らかに不連続な過程となるだろう。例えば、コインを投げ、表が出て、次に投げるまでの間はどのような因果過程となるのか。地面に落ちたコインを拾い、再度投げる準備をする過程はどのように記述できるのか。これらの過程はコイン投げ自体とは連続しておらず、コイン投げの繰り返しを考える場合、コインが投げられればよいという以外の条件は何もついていない。次のコイン投げが一日後だろうと半年後だろうと一向に構わない。3回目を東京で、4回目を大阪で投げても文句は出ない。コインが投げられるときには必ず同じ条件で投げられる、というだけで十分ということになっている。次のコイン投げの初期条件がどのように決まるか、いつ決まるかは初期条件空間をつくる際には考慮する必要のないものである。
投げられたコインを拾う過程とそれを投げる過程が連続しているなら、コイン投げはマクロな因果的過程の一部として存在し、それゆえ決定論的になる。コイン投げの過程の連続性と、他からその過程への介入がないことが保証され、それゆえ、閉じた過程であれば、その過程に登場する物理量は当然ながら保存されることになる。連続的なコイン投げの文字通りの物理的な実現は、保存性、連続性、閉鎖性が密接に結びついていることを示してくれる。保存的、連続的、閉鎖的な変化の中に「繰り返し」を見出すこと、挿入することはできず、それゆえ、コイン投げやその結果の頻度や分布といった表現は意味をなさないことになる。 これら条件を満たす因果過程に全く同じ繰り返しの過程は存在せず、一つの過程の一部に類似した過程、単なるパターンがあるように見えるということでしかない。
コイン投げが確率的、ランダムなのは、初期条件集合が表裏のランダムな分布を説明するからではなく、単にそのような初期条件集合が私たちに確率的な結果を生み出すと誤解させることに過ぎない。初期条件集合が表裏のアトラクターに吸引されるベイスンとなっていることが確率的であることの根拠だとすれば、その初期条件の一つ一つが実現しなければならないが、その保証など実はどこにもないのである。
 いずれにしろ、これまでの力学的モデルによるコイン投げは、なぜコイン投げが確率的なのかを十分に説明しているようには見えない。それどころか、確率的なコイン投げは不可能ということを強く示唆しているようにさえ見える。
 マクロな世界で個々の出来事や状態が確率的に起こることは不可能、これが私たちの健全で、常識的な判断で、ラプラスの判断でもある。そこにランダムな現象の存在を見出そうとすれば、マクロな世界が、一つの連続した、単純な因果的過程ではなく、神話や物語がもつプロット付きの因果過程、不連続で、分岐的な因果過程を含むものであることを認めなければならない。なぜなら、現実離れし、俯瞰的な見方をすることによって、複数の因果過程を対象にした確率モデルを構成できるからだけでなく、そのモデルがランダムな現象を説明できることを経験的に確かめることもできるからである。
物語は確率的な要素を含めることができる余地をもっている。因果性に固執した過程だけでなく、不連続的に話を打ち切り、別のシーンへと移り、新たな過程をスタートさせることが自由にできる、それが物語であり、物語で描かれる世界である。物語のプロットの存在は出来事や状態の不連続性、それらの組み換えを前提にしている。
私たちが理解する世界の因果的な時間発展はプロットを含む、つまり、不連続な初期条件の存在を認める。私たち自身が因果的な過程をスタートさせること、打ち切ることができるような世界に私たちは住んでいる。だが、物語のプロットが一切なく、物理的な自然の因果過程が一つだけあるというのが古典力学のモデルである。

8そしてミクロな世界で…
 以上のようなマクロな世界の変化をミクロな世界のそれと比べてみよう。すると、二つの事態が如何に異なるか、量子の世界の特徴を二つ挙げればそれがわかるだろう。

1. 微視的な世界では,物理系の状態の変化が不連続的に起こりうる。
2. その不連続的な変化では、ある状態から移りうる状態が複数あり、そのどれにいつ移るかが確率的になっている。原因と結果の1対1対応がなくなり、決定論的な因果性が成立しない。状態変化が一意的でないのは私たちの知識がまだ不十分だからではなく、本質的に不確定と考えられている。

原子論の原子は粒子であるが、その運動は連続的なものと想定されていた。だが、現在は物質の構成単位が離散的なだけでな、その運動も離散的であると考えられている。量子力学の言葉を使えば、このような変化は「ある物理系の状態が別の状態に不連続的に遷移する」と表現されている。
古典物理学の世界では世界を記述する言葉は粒子の位置と運動量である。だが、量子力学はこれとは違う言葉を使う。それは「状態」で,私たちが注目する対象の様子を表現し、数学的には成分が無限の複素数ベクトルで表現されるものである。ごく一般的な説明をするとすれば、次のようになるだろう。
「状態」を知れば、それから必要に応じて個々の粒子の位置や運動量の情報を得ることができる。ある水素原子に注目すれば、その中の一つの電子はある特定の「状態」をもっている。そして、この水素原子中の電子の状態は、離散的なエネルギーのものに限られる。それぞれの状態で電子がどこにあるかと聞かれれば、エネルギーの高い状態ほど原子核の陽子から離れて大きく広がっていると答えることになる。しかし、ある瞬間にどこの位置にあるかを知りたいと思うと、マクロな世界とは違う厄介なことが起こる。状態は決まっていても、位置は定まっていない、それもふらふら動き回っていて定まらないのではなく、この定まっていない「状態」が水素原子中の電子の状態そのものなのである。状態は変化でき、水素原子中でエネルギーの違う状態に「遷移する」ことができる。エネルギーの高い状態から低い状態に変わるとき、その差にあたるエネルギーが光として放出される。これと逆の過程が起きるのは、光が先にあって、それを電子が吸収したときである。しかし、あまり大きなエネルギーの光を吸収すると、電子は原子から飛び出してしまい、水素原子はイオン化する。状態間の遷移では、二つの状態のエネルギーは正確に定まっており、そこから出てくる光のエネルギーも正確に決まっている。光のエネルギーE は光の角振動数ω と比例し、 と書けるので、出てくる光の振動数が正確に定まっている。つまり、原子の初めの状態のエネルギーをEinitial、後の状態のエネルギーをEfinal、とすると出てくる光のエネルギーは、 = Einitial − Efinal から決る。いろいろな原子が同じように光を放出するが、そのエネルギー、つまり振動数はそれぞれに定まっている。このように,今までは連続的な量や連続的な変化だと思っていたもののなかに、離散的な値しかとらず離散的な変化しかしない場合があるのである。
また、原子の世界の周期的な運動が時間そのものなのだから、この運動と離れた時間というものはない。存在するのは時間ではなく、時計なのである。原子や分子の振動を使った現代の時計は、その針の示すものが時間そのものなのである。
は5730 年の半減期で電子(β 線)と反ニュートリノと呼ばれる粒子を放出して崩壊し、 に変わる。ここで半減期の意味は、初めに1 億個の があったとすると、5730 年後には5000 万個になるということであり、さらに5730 年が経つと2500万個に減る。放射性元素の崩壊での確率は、どの原子核が壊れるかを私たちが知らないからではなく、どれが壊れるかが決まっておらず、自然が本質的に確率的なものであることを示している。これが量子力学の帰結である。

9自由と決定への素描:鍵は不連続な反復
マクロとミクロの世界での確率的でランダムな変化に対する考えを見てきたが、ここではそれらから何が言えるか考えてみよう。まず、これまでのことを(1)としてまとめ、(2)として確率過程のまとめを記しておこう。

(1) 初期条件の集合、因果関係
(2) 確率過程と帳簿、付随性

(1) コイン投げの落下と着地のプロセスは古典的な決定論的過程である。落ちたコインを拾って再度投げるまでの過程は任意で、時空の制約はない。コイン投げを何度もすることができることが自然で起こる場合と人為的に起こす場合が考えられる。自然に起こる場合とは周期的な変化による場合で、繰り返される毎日や季節の変化が考えられる。私たちの無意識化した習慣などもその一つである。一方、人為的に同じ初期条件を起こすことは私たちの自由意志による。コイン投げ全体の過程は明らかに不連続で、非保存的であり、自然の過程であるだけでなく、人為の介入があっても構わないものである。その介入が私たちの意志による場合、自由と決定という伝統的な問題に切り込む端緒となることができる。
(2) 確率過程は過程というより帳簿に過ぎなく、因果的な記述ではなく、その記述内容の確率の記述である。帳簿は元の過程そのものではなく、異なる過程でも帳簿上は同じことが可能になるようなものである。その意味で帳簿の変化は元の過程に付随している(supervene)と言われる。反復の過程があることによって帳簿が確率過程であることが認識されるのであって、反復していないということになれば、帳簿も確率過程ではなくなる。

 繰り返しの過程や行為が可能であるという前提で、繰り返しを引き起こすところに自由意志が関与できる。というより、繰り返すことを決めなければならない場合が自由意志の存在を強く意識する場合である。自発的に繰り返しが起こる場合、そのシステムが孤立していて保存されているなら、そこには自由の入る余地がないどころか、そのシステムは運命論的に決定されている。その極端な例がラプラスの普遍的決定論であり、普遍的なシステム、つまり、宇宙全体が一つの閉じたシステムとして変化するなら、どこにも介入の余地がないことになる。初期条件が複数あることなど不可能で、何もないか、あっても一つ(ビッグバン)しかなく、それゆえ、その後の系の時間発展は一つしかなく、運命として決まっていることになる。

<反復>
 同じようなことが繰り返される過程は自然の中にも、私たちの生活の中にも沢山存在している。私たちは自然の中で起こる反復を利用するだけでなく、反復を生活の中で人為的に引き起こすことによって、確固たる知識や技術を確立してきた。変化の中の不変とは反復であるといっても強ち誤ってはいまい。キルケゴールはかつて後ろ向きの追憶としてではなく、前向きに反復を捉え、そこに自由を読み込もうとした。

反復と追憶[想起]は同一の運動である。ただ方向が反対だという違いだけである。つまり、追憶[想起]されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、本当の反復は前方に向かって追憶[想起]されるのである。([キルケゴール]、p. 8)

この引用を註釈すれば次の様になるのではないか。「反復」が未来志向的な運動であることはどのような意味をもつのか。『反復』において、結婚に踏み切れず苦悩し失踪した青年は、数年後に彼女が結婚したという知らせを聞き反復の存在を確信した。「ぼくはふたたびぼく自身です」と彼が述べるとき、彼は追憶によって不自由にさらされていた自身が再び自由な自分自身に回復したことを喜んだのである。つまり「反復」とは未来において自分自身を回復することと言い換えてもよいだろう。これが「反復」であり、反復はそれが可能なら人を自由にする。
キルケゴール風の解釈を続けてみよう。反復が自由を実現するのは何も恋愛に限った話ではない。例えば、音楽を演奏するとき、演奏者は一回一回過去の演奏をそのまま繰り返すわけではない。演奏は未来に向けて常に新しいものを孕んでいる。つまり演奏は一回ずつ過去と独立(自由)に新しいもので、これがライブの醍醐味であり、新しい反復である。 反復の可能性は常に前方に開かれている。「全人生は反復である」といわれるとき、それは繰り返しにとらわれた人生の不自由さを嘆いたものではなく、常に前進し創造していく力を目指すものである。
これまで見てきて、直ぐに気づくのは反復が何かに付随するものの間のパターンであり、それゆえに野放図に反復が設定できる点である。どこにでも生み出せる反復は私たちが習慣や伝統を確立し、秩序の中で生きる大きな力になるが、それが度を超すこともしばしばある。
因果的、連続的、閉鎖的な過程が決定論的過程であり、不連続的、並列的、開放的な過程がつくる集合が反復であり、それらが組み合わされることによって世界の現象が理解されてきた。私たちの自由意志も反復の存在に結びついて効果をもち、自由と決定の話が整合的に成り立つことになる。この話はまだあくまで青写真に過ぎない。反復が自由と決定の絡まり合いの鍵を握っているとだけ述べておく。
反復といえばフラクタルを想起する人も多い。フラクタルの特徴は「自己相似」にある。自己相似とは、図形の一部分が全体の縮小図形になっていることで、入れ子の構造とも言われる。パイこね変換でわかるように、引き延ばしと折りたたみの繰り返しによってカオスが生成される。つまり、最初の図形が自分自身の中へ繰り返し写像される。折りたたまれていく図形の全体の大きさは変わらないので、写像は縮小写像となる。つまり、カオスはもともと自己相似の性質をもっていることになり、フラクタルであるのはこのためである。自然の中のフラクタル構造生成の原因には次の3つのメカニズムが考えられている。

不可逆でランダムな成長過程によるもの    (凝集体,結晶成長)
非線形の折りたたみ効果によるもの      (カオス)
平衡系の相転移における臨界現象に基づくもの (相転移,臨界現象)

<反復性とエルゴード性
 同じ人が同じコインを同じ条件で何回も投げ、表が出た回数の平均値が時間平均であり、ある時刻に多くの人が一斉に同じコインを投げたときに表が出た人数の平均値が空間平均である。同じ人がコインを投げていくうちに、コインが歪んで表と裏の出方が変わるなら、時間平均と空間平均は異なることになる。それが起こらないという仮定、つまり、「時間平均=空間平均」という仮定がエルゴード仮定(性)と呼ばれるものである。
 コインの表か裏かの確率を厳密に求めるには、「全く同じ」コインを「全く同じ」時間に多くの人が投げて、表か裏かが出た人数の平均値を求めなければならない。これは不可能なので、一人の人が一個のコインを何度も投げてある結果が出た回数、つまり、時間平均が正しい確率となる。また、コイン投げの反復での各結果は独立である。前の結果が次の結果に影響を与えるのであれば、エルゴード性が成り立たないことを主張していることになる。エルゴード性の仮定から、時間的な反復は空間的な分布、頻度として測定可能になっている。

10古典的世界観の三つの前提:因果性、確定性、連続性(スケッチ)
古典的世界観の基本原理は、因果性の他に、確定性、連続性からなっている。ここではそれぞれの原理の詳しい説明はしないが、連続性に関わる事柄がここでは重要な役割を果たすことになる。 宇宙全体はその始まりを除いては連続的と想定できても、力学の基本モデルとしてよく登場する素過程はそもそもこの世界には実在しないゆえ、普通の物理過程には始まり、終わりのいずれかが必ず存在する。このような局所的な連続性の多数存在する世界では確率的なチャンスの存在が可能となる。まったくの連続する世界ではチャンスはあり得ない。
 不連続な世界で容認できる反復の存在はコイン投げ、規則的な時間的変化、世代交代等に見出すことができる。何度もコインを投げる、季節が繰り返す、世代交代による生物集団の維持等、反復を前提にした現象の理解は世界のどこにでも見られる平凡な規則性である。物語という因果的なものを根幹において支えているのが反復の存在なのである。反復関連の事柄と生命現象を幾つか比較すればわかるように、因果的な過程以外の生命現象の特徴が浮かび上がってくる。

(1) 反復の存在-世代交代の存在
(2) 反復的なコイン投げ-集団内の生殖活動
(3) 結果のランダム性-任意交配、無作為抽出
(4) 分布や頻度の規則性-1対1の性比、遺伝の法則

 古典的世界観が成り立つための物理世界に関する基本的な前提が三つあり、それらが因果性、確定性、連続性だと述べた。 物理世界の変化だけでなく、神話や物語の最も基本的な構図も、その変化の仕方はいずれも因果的である。物理学における単一の因果過程としての素過程(elementary process)のような因果過程のモデルから、ドラマの複雑なシナリオの展開に至るまで、実に多様な歴史的変化を含んでいるのが因果的変化である。出来事の系列が因果的であることが現象世界の基本的構図である。
物体の物理量が私たちの実験や観察とは独立にいつでも無条件に確定しているというのが確定性の最も基本的な姿であり、今の自分の体重がわからなくても、自分の体重がこの瞬間にある特定の値をもっていることを誰も疑わない。基本的な物理量に限らず、どんな出来事、現象に登場する対象もその物理的な性質は確定しているとみなされ、拡大して使われているのが確定性の原理である。だが、ハイゼンベルク不確定性原理はこれに反する原理である。
また、現象が突然に生じたり、消えたりせず、変化が連続的であることが連続性である。力学的なモデルは通常始まりも終わりもない。コイン投げモデルのスタートは物理的な理由でなく、単にそこから始めるに過ぎないし、地面に落ちて表か裏が出て終わりというのも恣意的なものである。
 これら三つの原理が古典論理と通常の言語規則のもとに組み合されると、その結果として決定論的な世界像が手に入ることになる。その厳格な例が古典力学である。それゆえ、古典力学の決定論的な主張は科学革命の成功として、さらには人間理性の勝利として、世界の出来事は原理上合理的に決定可能であると宣言されたのだった。ラプラスの魔物は世界のある時点での状態を知ることができるなら、過去も未来もすべて含めていつの時点での世界の状態も計算可能である、これが世界は決定論的だというラプラス流の認識版の表現である。
 このような勇ましい結論は何かが誇張され、そこから誤った結論に至ったと考える方が無難である。古典的世界観は完全な決定論を物理世界に関して主張するものではないというのが適切なのである。そこで、「決定論的な古典的世界観」に風穴をあけるために利用できるものとして、確定性と連続性を俎上に上げ、考察してみよう。
確定性に挑戦するとなれば、運動変化の軌跡を決めるのは位置と速度であり、時間を分割し、その極限として値が確定する、という点に注目する必要がある。連続性への挑戦は、運動変化が反復すること、繰り返されることが可能なことに注目すべきである。そして、二つの挑戦を合わせることによって、決定論的な世界で確率的な出来事が可能なことを示すことが目標となる。
 世界の確定的な状態が因果的に変化し、それが連続的であれば、結果として、その状態の変化は決定論的となる。これが古典的な世界観の根幹にある考えである。大変単純で明解である。位置や速度がいつでも確定していることはその値を決める決め方に依存している。これが第一歩である。決め方と独立しているというのが古典的な考えであるが、それは経験的に確かめられたわけではなく、単なる信念に過ぎない。
 複数の状態が可能であり、その状態の時間的な変化が非連続的であることが可能なら、非決定論的な帰結、つまり、マクロな場合は複数の同じ状態の反復が可能で、それが確率的に表現できる、ということが帰結する。

11最後に:進化論への応用(スケッチ)
 付随的な事柄が反復するようなことが生命現象によく見られる。まったく同一ではないにしても、生物学的に同一であることの基準が満たされるとき、反復する過程が随所に認められてきた。中でも代表的な反復が世代交代である。世代交代という反復によって進化が生まれ、進化によって世代交代の反復が適応として洗練される、といっても過言でないほどに、世代交代と進化は、反復を含む因果過程であることを通じて密接に結びついている。進化が反復を可能にし、その反復によって更なる進化が生まれることから、反復の記述として確率モデルが考えられ、

確率モデルを可能にする進化
確率モデルを利用する進化

の両方が進化の考察に含まれることになる。
遺伝子型がアトラクターとなって、どのくらいの確率でそれぞれの遺伝子型が実現するかが決められるモデルが集団遺伝学の一般的なモデルである。初期条件集団からアトラクターへの写像が決定論的な過程として存在していると想定されているが、それはモデルのどこにも直接は登場しない。初期条件は集団の状態だけでなく、環境を含めて考えられているが、最終的には適応度によって決められる。繰り返し、反復は世代交代そのものであり、極めて自然に反復が実現され、マクロで古典的な決定論的過程の中にどのように確率的な、ランダムな変化が起こるかは、コイン投げと同じように解釈できることになっている。確率的な解釈の自然な姿は、不連続な世代交代とその初期条件集団の集合、ということになる。
初期条件の集合から裏表の結果が出るコイン投げと同じ仕方で、メンデル集団の初期条件集合から対立遺伝子の組み合わせが結果として得られる。個々の世代交代は因果過程でありながら、初期条件の集合が確率過程的に並ぶ構造はコイン投げの場合と同じである。そして、初期条件集合から世代交代の結果への全体として見た場合のバイアスがあるかないかで選択と浮動の区別がなされることになる。
以上のことを要約すれば、因果過程への執着、密着と因果過程離れが付随性を介して確率的な変化として因果過程を解釈し直すことを可能にする、ということになる。そして、反復こそが確率概念の導入の鍵を握っていることがわかる。反復とは因果離れの具体的な姿の一つなのである。幾つかの要点を図式的に書けば次のようになるのではないか。

不連続-反復-初期条件集合=確率空間
部分的な付随性(連続的なものに付随する、情報的な側面)
結果は情報的、つまり、アトラクターとしての結果は物理的というより情報的

 これまで述べてきたスケッチを丁寧に仕上げるために必要なのは、D. LewisのPrincipal Principleを使ったマクロな客観的なチャンスの形而上学の展開ということになるのだろうか。何が重要なのか。「反復」の自然化はどのような形を取るべきなのか、連続と不連続がマクロとミクロな世界でどのように異なるのか、等々興味深い問題が待ち構えている。

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(補足)三体問題:カオスの発端 
天体力学では二つの物体まではニュートン力学によって解析的に計算でき、互いに引力を及ぼし合っている二つの物体は楕円、放物線、双曲線のうちのいずれかの軌道になることが証明されている。例えば、地球から打ち上げた人工衛星の初速が秒速7.9kmのとき円、それ以上で秒速11.2km以下のとき地球を焦点とする楕円、秒速11.2kmのとき放物線、それより速いときは双曲線を描くといった具合である。これらの曲線は円錐を異なる平面で切ることで得られる一群の曲線、すなわち円錐曲線で、力学と幾何学の間には美しい調和が存在していることを示している。ニュートンは二つの天体の間の運動方程式微分方程式)を積分することによって解き、安定な周期解となることを導き出した。この解がケプラーの法則である。次に、三つの天体間の運動方程式、すなわち三体問題(例えば、地球と太陽と木星しかない宇宙で、これら三つの星の運行を決める)になると、複雑でお手上げになってしまう。物体が三つ以上ある系についても運動方程式積分して解くことがその後試みられたが、結局、積分不能で行き詰まってしまう。三体問題の運動方程式を書くのは容易でも、それを解くのは非常に難しく、方程式を正確に解く公式は見つけられなかった。二体問題は可積分であるのに対し、三体問題を積分法で解くことは不可能であることを証明したのがポアンカレだった。