Zeno’s Paradox, Supertask, Thomson’s Lamp, Sorites, Induction and Other More

(タスク、行為、出来事、そして、スーパータスク)
 世界の中で何かが起こり、私たちは何をするか決めて実行する。それらはそれぞれ出来事、行為と呼ばれる。これら出来事、行為、そしてタスク(課題)の間にどのような違いがあるのだろうか。何かをするという行為はどのように数えることができるのか。一つの行為と一つの出来事は同じように一つなのか。かつてベルクソンは運動の数え方と時間や空間の分割の仕方が違うことを力説し、運動の持続性を強調した。運動は持続するもので、運動は距離を数学的に分割できるようには分割できないものだというのがベルクソンの主張だった。
 ある計算をするときの操作の一つ一つは行為なのか、それとも行為の要素なのか。計算することがタスクなら、意味のある結果をもつ、有意味なタスクでなければならない。ところで、「スーパータスク」の「スーパー」とはどのような意味なのか。それは、個々の操作や振舞いが何度も繰り返されるとき、その反復回数が無限になるという意味であり、超人的、あるいは奇蹟的な行為のことではない。
 物理的な出来事、自由意志の決定による行為の違いを念頭に置きながら、アキレスの運動、帰納法をスーパータスクとして捉えたとき、何が見えてくるのだろうか。

スーパータスク(超越課題、Supertask)
 SFに登場させるのに格好の、大袈裟な名称のスーパータスクとは、「有限の時間間隔の中で無限の操作を行う課題」を指している。例えば、「1時間の間に無限の地点を通過する運動」をイメージすればいいだろう。だが、私たちは有限時間内で有限回の操作しか実行できない。それが普通の人間的な行為であるから、通常のタスクは有限の操作の実行によってなされる。それに対して、無限の操作を実行しなければ達成できないタスクがスーパータスクと呼ばれてきた。
 スーパータスクの最初の例はギリシャ時代の「ゼノンのパラドクス」である。もっとも有名なパラドクスがアキレスの場合である。運動万能のアキレスが100メートル走るにはまず50メートル走る必要があり、そのためには25メートル走る必要があり、さらにそのためには12.5メートル走らなければならない…これは限りなく続き、結局アキレスは無限の地点を通過しなければゴールには到達できないことになる。ゴールを目指すアキレスは有限時間の間に無限の地点を通過する運動を実行しなければならない。つまり、アキレスはスーパータスクを実行しなければならず、それはこの世界では不可能であるため、100メートル走という運動、あるいは行為は不可能となる、これが運動に関するゼノンのパラドクスのスーパータスク版の説明である。
 ゼノンのパラドクスの解析学的な解決は運動が極限(limit)概念によって表現可能であることに基づいていた。これは運動する区間のどの分割もゴールではないが、その分割の極限がゴールであることを数学的に示すものであり、ゴールに到達できることがスーパータスクでありながら、それが数学的に可能であることを示すものだった。極限は連続的な変化の表現に必要だが、変化が離散的な場合はどうであろうか。Sorites(連鎖論法のパラドクス)を思い起こしてみよう。それは山盛りのピーナッツの皿から一個つまんでもやはり山盛りのままである、n個つまんでも山盛りのままなら、(n+1)個つまんでもやはり山盛りのままである、という前提のもとに、山盛りのピーナッツはいつまでたっても山盛りのままという結論が得られる伝統的なパラドクスの一つだった。このSoritesと同じ構造をもち、数学の証明方法として重宝されるのが数学的帰納法数学的帰納法は次のような公理で、証明の方法として多用されているものである。

F(0), F(n)→F(n+1)
nF(n)

これをSoritesに応用して、F(n)を、ピーナッツn個は山盛りでない、としてみよう。ピーナッツ1個は山盛りではないが、ピーナッツが何個でもあるのであれば、それは山盛りである。すると、ある数より多いか少ないかで山盛りかそうでないかが分かれることになる。

F(0), ⏋∀nF(n)
________________________________________
n(n≧0∧F(n)∧⏋F(n+1))

この線引きができないことからSoritesのパラドクスが生まれる。このパラドクスは「山盛り」に限らず、曖昧な述語が共通に持つパラドクスである。
 これが連続的な場合はどうなるだろうか。アキレスが区間[0,1]を走る場合である。それは次のように表現できる。F(n)を、アキレスは地点nでゴールしていない、としよう。スタート時点ではゴールしていないので、F(0)だが、ゴール時点では F(1)である。Gを部分和の集合で収束条件を満たしているとすると、

F(0), ⏋F(1)
________________________________________
G(∀x(xGF(x)∧⏋F(supG))

G=[0,1]のとき、supG=1となり、アキレスはゴールできることになる。これは超限帰納法が成り立つことであり、それはスーパータスクを実行することと同じである。そのような運動はこの物理世界では不可能で、連鎖論法のパラドクスも生まれてしまう。こうして、スーパータスク、Sorites、帰納法は運動、行為、操作のもつ同じ問題を異なる見方、方法で捉えていることがわかるだろう。
 スーパータスクがもたらす哲学的な問題は、数学的な操作と自然の中で起こる出来事、私たちの行為の間にどのような関係を想定できるかという問題である。また、自然の数学化が如何にして可能かという原理的な問題とも関連している。そこで、スーパータスクの典型的な例を幾つか挙げてみよう。

・トムソンのランプ(Thomson’s Lamp
 ランプの状態はいつでもオンかオフのいずれかである。時刻が0の時、ランプはオフで、時刻がt = ½の時、オンに変わる。時刻が¾ (= ½ + ¼)の時、ランプはオフに変わり、時刻がt = ⅞ (= ½ + ¼ + ⅛) になると、オンに変わる。この単純な繰り返しを続けたとすると、時刻がt =1の時、ランプはオンかオフのいずれになるか?
 ランプがオンで始まるなら、次は必ずオフになるので、最後の状態がオンではあり得ない。ランプがオフで始まるなら、すぐ次はオンになるので、最後の状態はオフではあり得ない。しかし、ランプの状態はオンかオフのいずれかでなければならない。これは矛盾である。

(問)上のトムソンの論証は正しいだろうか。(トムソンの議論はランプの最後の状態以前の過程に関しては正しいが、最後の状態には適用できないとし、矛盾ではないと批判したのがベナセラフである。 )

・トリストラム・シャンディ(Tristram Shandy)
 トリストラム・シャンディはスターン(Laurence Sterne)の小説の主人公である。 彼の自伝はとても詳細を極めていて、一日の出来事を叙述するのに1年の年月を費やしてしまうほどである。彼が不死でなければ、自伝は完成しないようにみえる。また、永遠に生きることが許されても、自伝の完成には何の助けにもならないようにみえる。なぜなら、自伝の叙述はますます遅れ、書き残しがますます増えていくようにみえるからである。だが、最後には彼の毎日が記録に残されることになる。

ニュートン力学の非決定論
 「物理的な対象の無限の集合はニュートンの運動法則に一致する仕方で自発的に励起できる」という命題はニュートン力学では偽の命題にみえる。だが、その証明は以下の通りである。質量mの質点が1メートルの線上に1, ½, ¼, …と並んでいるとしよう。最初の質点が1秒に1メートルの速度で次の点まで押され、衝突する。この衝突で最初の質点の運動量は次の質点に移動し、最初の質点は静止する。次から次と衝突が続き、最後にはすべての質点が静止する。ニュートンの法則は時間に関して不変であるから、時間を逆転しても同じように成立している。すると、逆転した衝突の過程は時刻t>0で何の原因もなく始まることになる。すなわち、最初の命題が成立することになる。そして、それは明らかに決定論の反例となっている。