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2020年から日本の教育

 2020年から日本の教育が変わり、「考える」ことが重視されると言われています。
 「考える」ことの定義は、「食べる、走る」ことの定義と似たものかというと、それは違うというのが過去に私たちが手に入れた常識で、結局大したことはわかりませんでした。「Xを考える」と思考の対象を限定しても、「考えるとは志向的だ」という程度しかわかりませんでした。でも、それが劇的に変わるのが20世紀以降。現在に至るまで、言語、論理、コンピューター、脳科学認知心理学などを駆使して、「考える」仕組みやプロセス、動機づけが具体的にわかりつつあります。これからはその認知科学的な研究成果を統合し、AI研究などを通じてどのように教育に適用できるかに関心がもたれています。
 「食べる」や「走る」を教育するとはどのようなことでしょうか。そう問われると、割と簡単にその教育内容を想像できます。ボルトが100mを誰より速く走るための訓練や練習が「走る」ことの具体的な教育内容だと想像することは難しくありません。
 では、「考える」の教育はどうでしょうか。学校で教えられる教材の中味について質問したり、異議を申し立てる生徒の姿を想像することは簡単です。でも、この想像は「考える」ではなく「自分の意見を言う」ことでしかありません。トランプ大統領の大統領令に賛成してデモ行進する人も、反対してデモ行進する人も、いずれも考えて決断した結果で、最初からゴールが決まってはいません。ですから、「何をどのようにどこで考える」かが不可欠で、「考える」ことを教育することは曖昧で茫洋としています。何を考える、どのように考える、考えたものをどのように表現して使う、といったことは過去の例を通じて考えることができるのですが、「考える」ことを考えることがたいした意味をもっていないように、「考える」ことは現場の教育の対象や課題にはなりにくいのです。
 「走る」ことは得意でも「考える」ことが苦手な人にとって、「考える」ことを執拗に強要されることは苦痛でしかありません。そのような人にできることは、他人が考えることに寛容な態度をとるくらいです。教育の現場で「考える」ことを実行するような児童・生徒を増やそうとすれば、「考えよう」などと声をかけることではなく、子供たちの好奇心を如何に刺激するかです。
 教室で「考える」を教えようとすれば、過去の「考えた」例を教えることしかできません。ですから、新しい教育改革のスローガンは「好奇心を持とう」であって「考えよう」ではありません。