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個人主義は適応的ではない?

 個人主義は近代以降の西欧社会の基本を支える思想の一つだということに文句を言う人はいない筈です。個人主義とは、他人と自分を天秤にかけた場合、他人ではなく自分を優先する考え方だと冷たく見放すことも、個人の生きる権利を擁護し、個人の自由意志を尊重する考え方だと優しく擁護することもできます。このように個人主義の解釈の幅を考慮しても、個人主義は人間集団の持続可能性にとってはマイナスに作用することになる、これがここで考えてみたい主張です。
 人間についての様々な考えが人間についてだけ通用し、他の生物にはまるで違った考えが適用されるというのがギリシャ以来の西欧の伝統でした。人間は動物でも、理性をもつということから例外だと考えられてきました。宗教、法律、倫理は人間の特権であり、いわば人間社会にだけ通用するローカルな規則集のようなものでした。「科学は人間を対象にしない」という考えに辛抱強く抵抗したのが科学者たちで、その原動力は好奇心でした。
 ところで、個人主義に敵対する思想となると、全体主義が浮かび上がってきます。個人の利益よりも全体の利益が優先され、全体に尽すことによって個人の利益も増進するという考えです。家族の構成原理,特に家父長的原理と情義的人間関係が外部の社会組織、集団にまで拡大浸透しているとき,そこにみられる行動様式、人間関係、価値体系を総称して家族主義と呼ぶのですが、これも一種の全体主義と考えることができます。
 全体主義や家族主義という言葉は、戦前の日本を覆っていた思想で、戦後それらを払拭することになり、今では個人主義が日本社会に基本にあると思われていて、未だに思想戦争が続いていると理解されているようなのですが、個人主義全体主義の間でのあれかこれかの議論は思想の論戦のナンセンスの代表例です。真実は個人主義全体主義と呼ばれるものの間に探すべきなのでしょう。

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ダーウィン

 では、この個人主義が集団の持続に寄与しないというのはどのようなことなのでしょうか。人間の本性を科学的に明らかにしようとしたダーウィンの進化論は発表当初からイギリス社会に物議を醸しだしました。特に、イギリス国教会は反対の立場を鮮明にし、ダーウィンのブルドックと呼ばれたハクスリーが進化論擁護に一人奮闘しました。宗教的な理由以外にも自然選択説による人間の倫理的な本性の説明は不可能と考えられていました。それは個人主義の極端なスタイルである利己主義しか自然選択説では説明できないと信じられていたからです。動物はみなその個体の生存のために他の個体を殺すことを優先します。弱肉強食の世界が自然選択のつくり出す世界であり、その世界では利己主義者が最適な個体になります。ですから、人間の本性である博愛や利他性は自然選択説では説明できず、人間は自然的でない倫理や道徳を本性として持つのだという主張が出てきます。
 利己性と利他性を比較すると、利他性はどのように考えても生存には有利でないことが言葉の定義だけから言えてしまうように思われます。自らを犠牲にして他人を助けるのですから、その行為はその人の生存には何ら寄与しないことは自明のように思われます。だから、利他的な行動は生物には見られないというのが当たり前の事実ということになります。それゆえ、倫理や道徳の出発点となる利他性は生物学的にはその存在が説明できず、それゆえ、倫理や道徳は非生物学的な、人間独特のものだということになります。
 生き物は自分勝手、自分のことしか考えないという究極の個人主義者、つまり利己主義者。だから、個人主義者こそが生存の最適者ということになる、というのが進化論だという理解が誤りだということが20世紀後半に明らかになります。ハミルトンは「包括適応度」という適応度を変形したモデルをつくり、群を選択の対象にした群選択のモデルも生まれ、それら数学的なモデルは、家族や集団への自己犠牲が適応度を高める場合があることを示してくれました。すると、その結果として個人主義は時には適応度が高くないことになります。

*さらに関心のある方は、ハミルトン、ウイルソン、ソーバーという名前で検索してみて下さい。集団遺伝学がダーウィンの進化論の理論的なモデルを提供してきたのですが、これは極めて数学的な理論です。集団遺伝学者として分子進化の中立説を唱えた木村資生はノーベル賞候補でした。中立説が個体レベルでも可能であるなら、個人主義全体主義も適応に関しては中立だということになります(むろん、この仮定が成立しないというのが木村の立場です)。

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(木村資生)