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古典的世界観の本性(1)

瞬間、連続、確定についての懐疑
 私たちは自分が生きる生活世界はこうだと勝手に思い込み、それを殊更意識などせず暮らしている。日々の生活の中で心と身体には多くの習慣がしみ込み、それらには無頓着になっている。中でも自然に関しては「環境」という流行語にでも結びつかない限り、その仕組みや原理は問題になることさえ滅多にない。古典的世界観と呼ばれてきた世界についての見方は、私たちが小学校以来学んできたお馴染みの世界観である。実際、高校までのカリキュラムはもっぱら古典的世界観の習得に費やされている。その結果、それは心と身体にすっかり同化し、言葉と同じように空気のような存在になっている。問われればほとんどの人が同じように反射的に答えてしまうという点で、皮肉にも教育の成果がしっかり達成されている。習慣のように心身に染みついた世界観を見定めるのは、日本語を客観的に説明するようなものである。
 そこで、次のような問いにどのように答えるか試してみよう。

ディープインパクトがゴールした瞬間などあるのか。
走っているのぞみが突然消えることなどあるのか。
私の今の体重は決まってなどいないのか。

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誰もこれらの問いの答えに頭を悩ますことなどない。誰もが、瞬間があり、のぞみの突然の消失などなく、私の今の体重は一つの値をもつに決まっている(この「決まっている」とはどんな意味かが問題なのである)と答えるだろう。では、躊躇なく答える理由や根拠はあるのか、あればそれは一体何なのか。その理由や根拠こそここで考え直してみようという古典的世界観の前提、仮定である。それら前提は上の例文から次のようなものだと推察できる。

瞬間がある。
運動変化は連続的である。
ある時の物理的な性質(とその値)は確定している。

いずれの文も疑う余地などなさそうに見える。デカルトやヒュームのしつこい懐疑さえ免れてしまうほどに当たり前に思われる。何よりそれらが正しいことを私たちは教えられ続けてきたのである。しかし、それでも古典的世界観の前提を疑ってみよう。

瞬間はあるのか?
運動変化は連続的なのか?
ある時の物理的な性質(あるいはその値)は確定しているのか?

これらの疑いが私たちの出発点であり、そこから疑いを生み出している時間や空間の謎の解明に挑んでみよう。

 

点と線についての問いと二つの解答
  私たちが今でも共有する古典的世界観は歴史的、文化的に説明され、理解されるのが普通である。だが、ここでは余計なものをすべて削ぎ落とし、掛け値なしに古典的世界観がどのような基本的前提に基づいているか曝け出してみよう。そのような前提探しに旅立つ準備として、次のような問いを考えてみよう。

点から線はつくれるか。線を分割すると点になるか。
線から面はつくれるか。面を分割すると線になるか。
面から空間をつくれるか。空間を分割すると面になるか。

(これらの問を一般化すると、次のような問が出てくる。空間から時空はつくれるか。時空を分割すると空間になるか。n次元空間から(n + 1)次元空間はつくれるか。(n + 1)次元空間を分割するとn次元空間になるか。n次元空間から(n + m)次元空間はつくれるか。(n + m)次元空間を分割するとn次元空間になるか。ところで、次元のない空間はどんな空間なのだろうか。答は点であり、点は次元0で、それゆえサイズがない。)

 これら問いは目新しいものではないし、参考文献を参照しなければわからないといった問いでもない。実際、私たちは既に中学校で習った幾何学を通じて点や線、そして面についていっぱしの知識をもっている。だが、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまう。

[解答1]
点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。

[解答2]
区間[0,1]が0と1の間にある個々の点(=実数)からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。

([解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるだろう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっている。)

 もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが古典的世界観で認められている解答なのか迷い始める。二つの正反対の解答を見て、古典的世界観が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるだろう。さらに、古典的世界観より古い世界観がまだ残っているからだ、あるいは新しい古典的でない世界観が侵入したからだと想像する人さえいるだろう。いずれにしろ、現在の正解は[解答2]である。

(問)0 + 0 +…+ 0 +…= 0 という表現は一見何の問題もなさそうだが、どのような意味で「曖昧か」述べよ(加法の定義を思い出し、加法は有限の操作なのか、無限の操作なのかに注意してみよ)。

 どれかの問いにYes、別のどれかにNoと、問いごとに異なる答を出す人は僅かだろう。多くの人はすべての問いにYesかNoのいずれかを答える筈である。すべてYesと答える人の理由こそギリシャ人と私たち現代人を区別する古典的世界観の前提となっているもので、その理由の核心は「実数」概念にある。実数を使って線を解釈すれば、その線上の点は一つの実数値に対応することになる。例えば、区間[0,1]の中にあるすべての点を取り出し、再度集め直すことによって、その区間[0,1]を再現できる。つまり、区間[0,1]にある点を再びすべて集めれば区間[0,1]をつくることができるし、区間[0,1]を限りなく分割していけば点である個々の実数に到達できる。このように考える基礎にあるのは正に「実数、そして集合論による点や線の理解」である。具体的にどのように点を集めるか、どのように線を分割していくかの細部が曖昧だという漠然とした不安は残るが、点から線をつくることができ、線を分割し続ければ点に到ることは集合あるいは(集合論的な解釈を使った)実数に関する簡単な定理として証明できる。(細部が曖昧だという漠然とした不安は、これら一連の操作が「構成的(constructive)」に可能か否かに関する不安である。この不安を重大な問題と考えた直観主義者は、不安は不確定なものの存在にあり、それを無視できないと考えた。私たちが数学的対象を具体的につくり出せるか否かという認識上の不安はあるが、それを無視することによってより広い範囲が射程に入り、広大な無限の世界を扱うことができると考えたのが通常の数学者である。既に、ユークリッド幾何学を図式を使った構成的な証明からなると考えるか、ヒルベルト形式主義に従って考えるかの違いを述べたが、「線を引く」ことと「線が存在する」こととの関係は、線を数学的に構成できるかどうかが判明しない限り答えることができない。)実数の性質は高校までに一応習ったことになっているから、それを覚えていれば答えはすべてYesとなる。さらに、ギリシャ人と私たちが違う答えをする理由も併せて説明できる。私たちのように実数を使って点や線を考えるならYesが答えとなり、少なくとも実数を私たちのように使わなかったギリシャ人なら答えはNoとなる。実数は連続体だが、自然数は離散的でしかない。これがYesとNoの違いを生み出している。(上の問いはいずれも点や線に対応するものが物理的には時間や空間だと考えると従来の議論の自然な解釈になるが、対応するものが物質の場合はどうだろうか。物質は明らかにサイズや延長をもっている。デカルトでなくとも誰もそのように考えるだろう。そして、物質を限りなく分割していくことはできないと誰もが認める。実際、ギリシャの原子論は物質が限りなく分割できるものではなく、分割には終着があり、それがこれ以上分割できない、不可分の「原子」であるという仮説であった。それゆえ、原子はサイズをもつ「物質の最小単位」と認められ、原子からの物質の構成も有限の時間、手続きを通じた有限の原子数をもったものと考えられた。高々自然数を用意しておけばすべての話は何の問題もなく済んでしまう。自然の中のどんな物質もその数がどれ程多くても有限に過ぎないという確信は、物質についてのこの原子論に由来している。(それゆえ、私たちは浜の真砂の数や見上げる夜空の星の数を莫大だが有限個しかないと信じている。)原子論が正しいとすれば、本文の問いはことごとくつまらない問いとなり、点である原子から「原子線」も「原子面」もつくることができるが、そこに興味を抱くことは何もない。すべては有限の操作に過ぎず、点と線の本質的な区別がないからである。点にも線にもサイズがあり、その長さは単に程度の違いに過ぎない。それゆえ、Noと答えた人の答えとその形而上学的理由は時空については誤っているが、物質についてはまったく正しいことになる。物質に関する原子論とその無限分割可能性は、したがって、両立しない概念であり、いずれも論理的に正しいわけではなく、その意味で正に仮説である。それゆえ、時空の量子化(=原子化)や物質の無限分割化はいずれも論理上は可能な仮説ということになる。)
 これまでの話は直観的にわかりやすい。しかし、それを直観的にではなく、哲学的な理屈を与えながら、単なる話ではなく、理論化しようとすると相当に厄介である。また、既に登場した瞬間、連続、確定といった概念と解答がどのように結びつくのかも明瞭ではない。[解答2]の正しさが理論を使って誰もが納得できるようになるのに20世紀までかかったことからも、厄介だというだけでなく、多くの人の関心をかってきた興味深い問題であることも伺えるだろう。非古典的世界観が非古典的な物理理論(主に相対論と量子論)をもとに議論されて既に久しい。だが、それを支える非古典的な、新しい諸前提がどのようなものなのかは未だに判然としていない。それを思案するためにも古典的な諸前提の再分析は欠かせないだろう。その前に基本的な事柄を復習しておこう。