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古典的世界観(1)への常套の批判や不満

 いつものように大袈裟なタイトルだが、言いたいことは単純明解な次のこと。私のFacebookの友人たちは画像にうるさい方が多い。素晴らしい写真や動画がFacebook上に溢れている。きっと毎日「決定的瞬間」を撮りたいと思っておられる方が多いことだろう。そんな方々には私の議論はあまりに現実離れしているという思いが強い筈である。「瞬間」があるかないかなど問うまでもなく自明なことで、瞬間がなければ見事な映像を撮ること能わずだと一蹴したくなることだろう。これが常套の批判や不満。そんな少々マニアックな方々のために「瞬間」の画像について哲学的でない話をしてみよう。
 「決定的瞬間」と言えば、1952年に出版されたアンリ・カルティエブレッソンの写真集The Decisive Moment(英語版のタイトル)が思い出される。フランス語原題はImage à la sauvette(直訳すれば、「消え去る映像」)。写真を語る際によく使われる「決定的瞬間」は、ブレッソンのこの有名なタイトルに由来する。21世紀の今でも写真撮影の代名詞のように定着している。

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ブレッソンの『決定的瞬間』 表紙のデザインはアンリ・マティス

<瞬間を撮る:シャッター速度>
 まずは身近な事柄から。シャッター速度は「1/250秒」などと秒数で表示されるが、シャッターを開く時間のことである。シャッターを押すと、事前に設定された秒数の間、シャッターが開き、画像センサーに光が当たって写真が記録される。シャッター速度を早くすると、瞬間的な写真が撮れ、水しぶきが止まっているような写真が撮影できる。反対にシャッター速度を遅くすると、水や霧の流れが白いベールのような写真を撮影できる。
 絞りは、レンズから取り込む光を調節する羽の絞り具合のこと。蛇口を大きくひねると、コップの水がすぐにいっぱいになるように、絞りを開いて撮影すると短いシャッター時間でも十分に光を集めることができる。一方、蛇口を小さくひねると、コップに水を入れるのに時間がかかる。それと同じで絞りも絞り込むことによって、光の量を少なくして、シャッター速度を遅くすることができる。スポーツなどの速い動きを止めて撮影するには、シャッター速度を上げて、絞りを開く必要がある。一方、シャッター速度を遅くして雰囲気のある写真をとりたいときには、十分に絞りを絞り込んで光の量を調節する必要がある。

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エドガー・アラン・ポーのダゲレオタイプの肖像写真)

 写真は「瞬間」を永遠に残すが、「瞬間」しか残せない。だから、写真は「瞬間」に執着する。昨年10月に封切られた黒沢清監督の「ダゲレオタイプの女」という作品の「ダゲレオタイプ」とは世界最古の撮影方法(ダゲールが1837年に完成させたヨウ化銀を感光剤とする写真技術がダゲレオタイプ。この感光板をカメラ・オブスクーラにセットして露光する)。分単位以上のシャッタースピードを必要とするために、人物写真であればその場に静止したままという面倒な撮影方法である。瞬間を生み出すために静止の持続を必要とするのである。しかし、写る像はリアルで「まるで生きているようだ」と表現されるほどで、それが映画の舞台装置になっている(ダゲレオタイプの写真家ステファンのアシスタントになったジャン。その撮影方法の不思議さに惹かれ、ダゲレオタイプのモデルを務めるステファンの娘マリーに恋心を募らせる。自ら命を絶っていたステファンの妻の幻影……愛が命を削り、愛が幻影を見せ、愛が悲劇を呼ぶ、ホラー・ラブロマンス)。

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 最近のテレビでは選手やボールの動きをゆっくり、あるいは「止めて」見ることができ、なぜそんな結果になったかを詳しく知ることができる。これと同じように、基礎科学の分野では日常生活で見られるものよりもはるかに速い物理現象を観測するために、それら現象を止めて見るための「一瞬だけ光る」パルスレーザー光源の開発が続けられている。パルスレーザーをカメラのストロボのように使うことで、人間の目では絶対に追うことのできない原子や分子の動きを見ることができる。また、ストロボが光る時間幅、すなわちパルス幅が短くなればなるほど、より速い現象を止めて見ることが可能になる。20年程前から、「フェムト秒レーザー」(1フェムト秒は1000兆分の1秒、10-15秒)と呼ばれるレーザーが実用化され、分子が振動する10兆分の1秒から100兆分の1秒程度の時間であれば、その動きを「止めて」見ることができるようになった。
 一方、今世紀に入ると、さらに短い時間幅の光を発生させ、究極の高速運動である「原子内で動き回る電子の動き」を観測するという試みが始まる。ここで使われるのがアト秒パルス (1アト秒は100京分の1秒、10-18秒)と呼ばれる非常に短い時間で光るストロボ。この分野は「アト秒科学」と呼ばれ、世界各国で盛んに研究されており、多くの研究者がアト秒パルスの時間幅を縮めることにしのぎを削ってきた。
 最近、理研はアト秒 (1アト秒は100京分の1秒、10-18秒)の時間幅をもつ極短パルスの極端紫外光(XUV)を高効率かつ高強度に発生できる手法を生み出し、それを用いて卓上サイズでギガワットの瞬間出力を持つ孤立アト秒パルスレーザーを開発した。研究グループは、孤立アト秒パルスを発生させる方法である高次高調波発生の励起レーザーに、波長の異なる2つのレーザーを時空間で合成・制御した2波長合成レーザーを使用し、これに理研独自の高調波エネルギースケーリング法を組み合わせることで、XUV領域においてパルス幅 500 アト秒、瞬間出力2.6 GWの高強度アト秒パルスの発生に成功した。従来法と比較すると、100 倍以上の高出力化を実現し、さらに励起レーザー光からアト秒パルスへの変換効率も10 倍以上改善した。 

 これらの結果は実験レベルのものだが、実用レベルでも高速のストロボが開発されている。ストロボで1/100,000秒の世界が実現されている。その結果、今まで動いている姿しか見ることができなかった現象が静止した状態で見ることができるようになっている。   1/100,000秒で発光できるストロボを使い、カメラのシャッタースピードを凌駕した一瞬の時間を切り取る。グラスが砕けたり、水面に石が落ちる様子は目の前で起きていることだが、その瞬間のフォルムは人間の裸眼では見ることができない。それが見えるのである。
 限りなく「短い瞬間」に近づく技術の追求は私たちを虜にすること間違いなしである。この追求は極限まで続くだろう。つまり、この世界では限りなく続くということだ。では、哲学の側は「瞬間」について何を主張してきたのか。参考のために二人の例を挙げておこう。
アンリ・ベルクソン『時間と自由』
 意識とイマージュに執着したベルクソンは、意識と物質といった二元論を考え直し、時間、記憶、身体等々を「持続」という観点から捉え直す。写真は瞬間を捉える装置だと言われてきたが、瞬間という概念を実際に考察している写真論は意外に少なく、それは自明のものの如く前提されている。瞬間は数学的な捏造だと考えるベルクソンは持続という観点から、運動を捉え直そうとする。では、その運動の瞬間を切り取る写真とは何なのか。「持続的な写真」とは?純粋持続と瞬間を撮る写真は両立するものなのか。カントが持続と空間を混同したと批判し、時間と感覚を等質的時間と具体的持続の差異から考察したのがベルクソンの本書であるが、写真に対して何らかの寄与はあるのだろうか。
メルロー・ポンティ『眼と精神』みすず書房
 「まなざし」という概念は、写真を語るとき不可欠な概念だが、多義的な概念で、問題を曖昧にしてしまう。「見ること」を徹底した現象学的内省によって考察した本書は、この意味で、身につまされる書物なのである。重要なのは、「もはや問題は空間や光について語ることではなく、そこにある空間や光に語らせることなのだ」という口当たりのよいポンティの言葉を反復することではなく、それが「私の身体が〈見るもの〉であると同時に〈見えるもの〉だ」という「謎」に直面する困難から語られていることを忘れないことである。このような些細な気遣いだけでは写真家は心を動かされないだろう。カメラは〈見るもの〉と〈見えるもの〉をすっかり変えてしまったのだから。

 最新の写真技術を念頭に置くと、二人の哲学者のアイデアは時代遅れの感が否めない。そこで、二人のことは忘れ、ここまでの議論を私なりにまとめておこう。永遠も瞬間も知覚できない、だから、それらの画像はない、と簡単に結論することなどできない。永遠や瞬間のモデルはつくることができ、それらは数学化できる。だから、知覚できない永遠や瞬間でも数学モデルとして一部は画像化できる。そして、その画像化は絵画から始まり、写真、さらに映像技術によって具体的に表現されてきた。
 その数学モデルでは、4次元の出来事を2次元の画像に変換できる。2次元の画像の具体例は(絵画や)写真。撮られた写真の数はこの世界では有限。4次元の出来事は、それゆえ、有限の写真の集合に変換できる。実数の組で表現される世界の出来事を定点観測するには有限の自然数で可能なのである。
 実数モデルでの瞬間は点で表現され、サイズのない点を時刻とすると、それはシャッター速度が無限小となり、どれほど速い運動でもその静止画像が撮れる。つまり、光の静止画像が撮れることになる。光を使って光の静止画像が撮れるのか、そんな疑問がすぐに出てくるから、それは原理上は不可能。だが、その原理に限りない近い状況では技術革新が続いている。その現場では、どれ程速く動くものでも、その静止画像が撮れたら、それがそのもの瞬間の像だと考えることができる。
 あるものの瞬間とは、それゆえ、そのものの静止画像の状態であり、限りなくクリアーな静止画像の追求が瞬間の追求なのである。