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古典的世界観の本性(2)

幾何学での点と線
 点にサイズがあり、延長をもつとしてみよう。その延長の半分も延長であり、かつ延長の半分は元の延長の一部分である。よって、点は部分をもつことになり、「点は部分をもたない」という点の定義に反する。それゆえ、点にはサイズがない。また、点にサイズがあれば線にもサイズ、つまり幅があることになる。だが、これは「線が幅をもたない」という線の定義に反する。よって、これらの定義から「点にはサイズがない」ことが得られる。また、線を限りなく短くしていくと最後には(極限として)サイズのない点に至る。この<サイズの消失>を「量から質への転換」などと弁証法的に表現したところで何も得られない。量から値への転換なら有意義であるが…
 点に部分がないことから、サイズがないことがわかったが、そこに隠れていた前提は分割可能性である。自然に「サイズがあり、部分がない」ことは、自然に「サイズがあれば、部分がある」という主張と両立しない。ここでの違いは自然が「分割できない」ためである。ここで、原子論と全体論の関係を確認しておこう。原子論の下での原子の全体性と全体論の下での宇宙全体の全体性は異なっている。ユークリッドの定義を使った場合、原子が部分をもたないことから、分割性を使って原子がサイズをもたないことを証明できる。宇宙は当然サイズをもつ。しかし、それは部分をもたないというのが全体論の主張である。すると、原子論では「サイズがあれば、部分がある」という主張が正しいのに、全体論では「サイズがあって、部分がない」ことが正しい。この両立しない理由は原子論と全体論が異なることを主張しているというより、分割可能性が両者を分けているといったほうが適切だろう。分割可能性が成立する原子論ではそれを使って「サイズがあれば、部分がある」が証明されているが、全体論では全体は分割できないという主張から分割可能性が使えない。それゆえ、サイズがあるのに、「部分がない」と仮定しても矛盾は生じない。だが、分割可能性が使えないことの代償は想像以上に大きい。また、分割不可能性は精神的な事柄によく使われ、そのためかそれが精神的なものが受ける代償になっている。

ライプニッツモナド
 17世紀の機械論哲学から生じた困難に「連続体の迷宮」がある。それは、「事物の究極的な要素は存在するのか」という問題に対し、物体的原子を主張する原子論者の仮説をとっても、また原子を否定し非物体的な単位を仮説としてとっても、連続体をつくり出せない、というアポリアを指している。それは、運動という物理的(時間的・空間的)現象が連続することを、点と線に関する幾何学的な連続によって扱おうとして生まれた「ゼノンのパラドクス」の再発と考えることができる。「連続体の迷宮」によれば、(A)線分の限りない分割によっても点が構成できない、および(B)点を限りなく集めても連続する線分は構成できない。その議論は次のように再構成できる。

(前提)[物体の定義]すべての物体は何らかの空間的な広がり、すなわち延長をもつ。
(A’)今、事物の究極的な構成要素が物体的な原子であるとすると、前提よりそれは延長をもち、延長をもつならば限りなく分割可能である。よって、その物体的な原子は自らより小さな部分へと果てしなく分割でき、(A)より、真に究極的な要素を特定することはできない。
(B’)そこで、事物の究極的な構成要素が、物体的な原子ではなく、いかなる大きさも、また形も部分ももたないほど小さいとする。つまり、延長をもたない非物体的なもので、点と同じとする。しかし、(B)より、点を無際限に組み合わせていっても点は点のままであり、点の集合から線分を構成できないのと同様、非物体的な原子から連続体を構成することはできない。さらに、何らかの別の仮定なしには、非物体的な次元から物体的な次元への移行を説明できない。

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 ライプニッツは単に原子論者の矛盾を指摘するだけでなく、さらに独自の理論を展開して、実在する世界がどのようであるかを説明しようとする。その理論こそ、物体を真に構成する単位は「原子」ではなく「モナド」でなければならない、というモナド論である。ライプニッツは実無限(actual infinity)を拒否し、可能無限(potential infinity)のみを認める構成主義的な立場をとる。ライプニッツは「1/2, 1/4, 1/8, ...」という無限数列の中には、どんなに小さくとも有限の分数しか存在し得ない、と答えている。つまり、線分は限りなく分割可能であり、無限小(infinitesimal)は存在し得ない。同様にして、事物の分割も限りなく行うことができる。したがって、延長を本性とする物体と、分割不可能な原子を結合した物体的原子の仮説は矛盾している、ということになる。
 この論証とは別に、ライプニッツは数と量の本性に訴えなくとも、実無限は拒否されねばならないと考える。というのも、「自然数全体の数」および「最大数」などの概念は、「全体は部分よりも大きい」という公理を破っているからである。
 ライプニッツは、モナドが表象という仕方で実在的な世界全体を内的に含んでいると考えた。連続体という見かけ上の大きさは、現象世界にのみ当てはまる。それゆえ、モナドは、形而上学的に言い換えられた点ないし無限小にすぎないと批判されるかもしれないが、現象世界にしか属さない連続体をいかにして構成しうるかという問題は、実在世界には持ち込まれない。つまり、実在世界には連続体は存在せず、現象世界にはモナドは存在しないのだから、連続体の迷宮もない。モナドが属する実在世界と、モナドによって展開される連続体が属する現象世界を混同したところに、連続体の迷宮の起源がある。これがライプニッツの説明である。
 ライプニッツは「連続体の迷宮」を解決するために、世界を現象世界と実在世界とに二分し、後者に属する実在的な構成単位であるモナドが、実在世界すべてを表象という形で、すなわち現象世界として含んでいるとした。現象世界は、連続的世界としてあり、それは人間の認識活動と不可分な「観念的な世界」で、そこでは全体が部分に先立つ、すなわち、部分はそれより大きい全体の可能的な分割としてのみ存在しうる。それゆえ連続体すなわち物体は、その部分の分析のために、観念的なある全体を単位として前提せざるを得ず、果てしなく分割可能とされた。他方で実在世界は、モナドで充満している離散的世界としてあり、人間の認識している物理現象とは次元の異なる世界と考えられた。そこでは部分が全体に優先する、すなわち構成単位たるモナドが、それらで充満している世界に優先する。このように、ライプニッツにおいては現象主義的側面と形而上学実在論とが同居しているが、それら異なる世界間の橋渡しをしている概念こそがモナドであり、その概念には、無限に関する数学と形而上学が決定的に関わっている。
 だが、残念ながらモナドは実証できない。それは精神原子であり、仮想実体である。

現在の常識
 「現在の知識をもとに過去の哲学理論を捉え直す」、「過去の哲学を使って現在の知識を直す」といったことがしばしば行われるが、大抵は過去のことを普通の人より知っている哲学者が試みる典型的なスタイルの一つである。しかし、そのような場合の「現在の知識」とはどのような知識なのだろうか。それは現代人が共有する常識的な知識なのか、それとも専門家がもつ非常識的な知識なのか。残念ながら、過去に詳しい哲学者が採用するのはほとんどの場合、彼が常識的な知識と考えるものである。では、その常識的な知識は文字通りの現在の知識から見て正しい知識と言えるのだろうか。そこで、次の問題から各自の「現在の常識」を点検してみてほしい。

(問)時間や空間をそれぞれ独立に考察することができるか。
(問)運動は運動する個体に内属する性質か。
(問)物理量と統計量は共に個体の性質か。
(問)不確定性関係は対象の性質か、それとも観測の限界なのか。
(問)粒子と波動は両立するものと考えることが可能か。
(問)ミクロな世界とマクロな世界とを区別する根拠は何か。

 恐らく上の問に対する解答は分かれるだろう。「現在の常識」とは何かを決定することは意外と厄介なのである。そこで、現在の常識を少しでも知るために、点や線、連続性、確定性に関連する常識を考えてみる必要がある。

原子論と虚空
 アリストテレスは「虚空」を否定したが、その理由は何だったのか。虚空中での物体の運動速度が無限になり、無限の速度など存在しないと言うのが彼の否定の理由である。誰もこの理由が正しいとは思わない。「虚空」はその後もしばしば哲学の議論に登場し、その存在を巡って多くの議論がなされてきた。「虚空」とは何もないことである。だが、誰も「虚空」を文字通り何もない「無」とは考えない。虚空は空間として存在し、そこに「もの」と呼ばれるものが一つもないというのが常識的な理解である。今までの原子論もすべてこの常識を採用してきた。そこには「虚空」に対する二つの異なる役割が混在している。
虚空には二つの意味がある。それらは「対象としての虚空」と「表象するための虚空(モデルにおける虚空)」である。「零」の二つの意味をヒントにして考えてみよう。0と101を比べると、101の0は数の表記上の意味をもっている。0が何を指示するかではなく、0を使って何を表示するかがその意味を決めている。同じように、対象としての虚空は文字通り「無」であるが、モデルでの虚空は距離、面積、体積を表象するための役割を担っている。0と虚空はそれぞれ数の表記と時空の表記のために本来の指示対象とは異なる意味や使い方が必要となる。
 力学が運動理論であることから、単に物体がそこになければよいと考えるのが二番目の区別の理由である。「何もない」のは文字通り何もないのではなく、単に物体がないというだけに過ぎなく、それゆえ、時空はあっても構わないし、むしろあると考えるほうが力学には好都合であり、優れた表現装置として役に立つのである。
 力学では、虚空の中の運動とは時空の中の運動である。運動を明確に把握するためには時空が不可欠であり、時空がなければ運動はそもそも存在さえしない。また、虚空の中の運動は端的にあり得ない。運動の表象と表現のための時空は物体とは区別され、できるだけ無色透明に近い形で考えられている。そして、0が位取り表記に使われるように、時空は運動を表現するために使われる。そこで、現在の集合論を使ってこの議論を振り返ってみよう。簡単に3次元の空間R3を考え、3次元の座標系を想像してみよう。空間内のどの地点も(x, y, z)という点で表記され、3個の実数で表される点である。このような点が充満しているのが空間だと考えると、「虚空」は定義上どんなものも含んでいないのであるから、そのような点が一つもないことになる。そこで(x, y, z)という点をすべて取り除いてみよう。すると、虚空は空集合ということになる。これが虚空の文字通りの解釈となるはずだが、現在の科学はそれを採用していない。この考えを時間に対して適用してみよう。すると、

瞬間がなければ、時間がない、

という命題が得られる。点を瞬間と解釈すれば、「瞬間がない」ことは「点がない」ことであり、結果として瞬間の集合である時間は空集合となり、時間がないことになる。この文の前件は古典的な前提「瞬間がある」の否定である。この否定が非古典的な前提「瞬間がない」であり、これが正しいなら、後件の「時間がない」も正しいことになる。非古典的な意味であっても、これを正しいとは誰も認めないだろう。では、何がおかしいのか。(実数、集合といった基本概念が疑いの対象になるだろう。)
 さらに、「空間がない」ことも同じように推論でき、

地点がなければ、空間がない、

ことが成立する。これらをまとめれば、「瞬間や地点がなければ、時間と空間がない」ことになる。これらが正しいなら原子は運動できず、「運動がない」ことになり、パルメニデスの主張が論証されたことになる。つまり、虚空を空集合と解する限り、瞬間がない、地点がないという前提の下では運動を否定しなければならず、パルメニデスの主張が非古典性に関わっている可能性を示唆している。
 以上の話が本当かどうかは意見が分かれるのではないか。このように考えるべきでないとしたら、他にどのような考えがあるのだろうか。