習慣の裏表

(知識にならない情報についての愚痴)
 SNSに登場する知識は日々の情報と区別がつかず、どんな知識も昨日の情報として忘れ去られ、未来の情報など実はデマに限りなく近い。Facebookの話など一日経つと古くなった価値のない情報に過ぎなくなり、時系列のどの情報も統合されることなく、断片のまま忘れ去られていく。だから、統合しようと無駄骨を折るなら、今日の話はできたとしても、それも明日は忘却の闇に入るしかない運命にある。情報の世界は正に諸行無常の世界で、情報流転説の主張は正しいと言わざるを得ない。言語や映像は情報内容を定着させる工夫のはずだったのだが、いつの間にかそれらは情報を瞬く間に無にする装置に変わってしまった。束の間の話がほんの僅かでも記憶に残留し、未来の何かへのきっかけにでもなれば上出来なのだが…その確率は極めて低い。今や言語も映像も情報流転説を支持し、私たちの関心を不変にではなく、変化に対してもっぱら向けているのである。

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(Albert Camus)

 『シーシュポスの神話』(Le Mythe de Sisyphe)は、アルベール・カミュの随筆である。神々を欺いたことで、シーシュポスはその怒りを買い、大きな岩を山頂まで押して運ぶという罰を受ける。彼が神々の言いつけ通りに岩を山の頂上まで運ぶと、その瞬間に岩は山頂から転がり落ちてしまう。彼はまた同じ動作を繰り返さなければならない。岩を運び上げることが何の意味ももたず、徒労に終わることを知りながら、シーシュポスは同じことを繰り返さなければならない。人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰すことを承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける。そのような人の運命をカミュは描き出している。
 第二次大戦後のヨーロッパと現代は異なり、誰もこの神話をカミュのように悲劇的に解釈しないのではないか。だが、人の気持ちなど状況次第で変わり、紙一重でカミュの解釈を成程と思う輩も決して少なくないだろう。カミュの肩をもつわけではないが、現代人には「シーシュポスの神話」はどのように映るのか。
 毎日同じ道を岩を押しながら登り、山頂まで行く。天気や季節の変化が単調な毎日に入り込み、一日として同じ日はない。同じ岩であっても、同じ風景ではない。身体の調子も日によって異なり、時には登山者とも出会うかも知れない。高山植物も眼を楽しませてくれる。人はどれほど単調な仕事にも楽しみを見出すことができる。神々の命に従うことを受け入れることは苦痛だけではなく、楽しみも与えてくれる。従順に運命に従うことが人生であると悟れば、それを受け入れることによって日々生きる意義を見出すことになる。
 カミュ風か上述の私風か、それは単なる解釈の違いに過ぎなく、大きな違いはないように見えるのだが、それが大きな違いであると歴史的に信じ込まれてきた。運命として課せられることと、習慣としてつくられることの間には大きな違いがあると信じられてきた。反復の悲劇か、反復の平穏か、と思想家は叫んでも、いずれでも目くじら立てるほどのことではないというのが普通の人の普通の感想と言ったところか。
 与えられた情報を知識と信じ、理想化、単純化して神話=寓話を創作する。その創作内容は真理であることを臆面もなく主張し、それはカミュが嫌った形而上学と何ら変わらないことになる。そこでは「シーシュポスの神話」は創作であることが忘れ去られている。これがカミュ風なら、私風はどうなるのか。与えられた情報は調べ尽され、その中から信頼できるものだけを取り出す。それらを総合しても神話や物語はできない。山の斜面や気候、動植物の分布といった情報が知識としてまとめられる。私が神から岩を運び上げることを命じられていることは別の研究者たちの研究対象であり、それについては私は自分の意見をもっていても、自分を分析できる立場にはない。
 絶望するシーシュポス(そして、カミュ)の「絶望」と私の「絶望」は全く異なる。私の絶望は情報から知識を手に入れることが私が死んでも続くことである。その絶望が心理的負担でないのは、それが私だけの絶望ではなく、知ろうと思う人すべてが担っている絶望であり、とても「薄い絶望」なのである。というのも、ほぼ100%確実なものなら、それに絶望することは大した負担ではないからである。
 少々大袈裟な原理的な話をすれば、いつまでたっても情報は知識になれないという絶望である。だが、きちんと言えば、それは絶望どころの話ではなく、不合理あるいは矛盾するかもしれない話である。私たちが知識をもてないとなると、それは極めて深刻な事態。暫定的な確証、一時的な証拠、とりあえずの真理が所詮は経験的な知識であり、そこから知識とは所詮暫定的なものであり、それゆえ情報に過ぎないことになる。つまり、経験主義の下では知識と情報の区別ができない、ということである。
 さて、タイトルを再考するなら、習慣は時には死ぬほど退屈で息苦しいものだが、それでも習慣は生きることそのものであり、安定的な生き方のエッセンスである。だから、習慣には二面性がある。そして、習慣の裏は実は表であり、表が実は裏であることが習慣のもつ込み入った二面性である。表裏と裏表が一体化した習慣の特性によれば、知識は所詮情報に過ぎない、そしてそれが経験主義の主張である、ということになる。