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世界のダイナミックな変化を述べる?:「因果的変化」の叙述の可能性

(少しは大胆に、挑発的に語ることが自然言語でも可能だと信じて…)
 現象変化の実際の姿を自然言語によって表現できるかと問われれば、それは無理難題というもので、私たちの言葉は謎に満ちた変化の表層を引っ掻くくらいしかできないというのが答え。最新の車の性能が最高だという理由はどこにもないのに、ついそう思ってしまうのが人の常。それと同じように、いつも使う最新の日本語は何でも最高に表現できると誤解してしまう。だが、実際の日本語の性能は実に貧弱で、特に自然の変化の叙述は悲しいほどに下手なのである。せいぜい及第点なのは人の心の描写くらいだろう。
 人類がごく初期から世界の現象変化を因果応報のダイナミックな物語として理解してきたように、私たちが幼児の頃に最初に興味をもったのも物語。成長するにつれ、多くの人は天変地異が織り込まれた波乱万丈の出来事の連続に魅了され、それを読み、語ることに心奪われた経験をもっている。自然言語は私たちが世界を物語り、知ることができる手段として重宝され、人類の歴史が始まって以来、自然言語とそれによって語られる世界が私たちの生活に不可欠なものとして溶け込んできた。人は言葉と共に、言葉は人と共に存在したのである。そして、実にたくさんの神話、物語がつくられ、いつの間にか語り部が語るだけでは足りず、新たな創り手が現れ、さらに物語がつくられ、遂にはそれを職業にする者まで登場することになった。自然言語は何であれ、世界に起こる変化を叙述するのに適していると信じられ、その自然言語をもとに文学が誕生し、世界と人間を描き出すことができると疑うことなく信じられてきた。それが証拠に、言葉を信じない文学者などおらず、彼らは言葉に命を賭ける始末なのである。
 だが、本当に自然言語は世界の変化を述べるのに適しているのだろうか。私が思うに、自然言語はダイナミックな因果的な変化を大雑把に説明できるかもしれないが、それを克明に記述,叙述することはできない。自然言語は変化の始まりから終わりまで途中経過をもれなく連続的に叙述することができない。つまり、変化の完全再現が自然言語は極めて下手なのである。じっくり考えれば至極当たり前の話なのだが、自然言語が日常世界の因果的な変化を述べることができなければ、そもそも人間が後生大事にその言語を使うことがないだろうから、因果的な変化を述べることは自然言語にとって至上命令であり、簡単なはずだと誰もが考えたからではないのか。だが、これは単なる思い込み、大いなる幻想に過ぎない。
 そんな例はギリシャ哲学の初期から数多くあり、自然言語の無力さを示してきた。自然言語を駆使して研究したアリストテレスの偉大な成果は自然言語によって可能な研究の集大成であると同時に、自然言語の欠点を見事に示してくれている。例えば、アリストテレスの「四つの原因」。彼は出来事の原因を自然言語の表現の仕方をもとに分類し、四つの原因にまとめ上げている。その分類は一見見事に見えて実は曖昧そのもので、だからこそ彼の注釈家たちはそれぞれの原因と相互関係を明らかにしようと躍起になってきたのである。今では、世界についての統一理論に四つも異なる原因があるなどとは誰も認めない。

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アリストテレス

 ギリシャ哲学、中世の哲学は「因果性」が存在論の基本的な研究対象であった時代。アリストテレスは哲学者である以上に経験的な科学者であった。彼の研究成果は16世紀まで物理的な世界観を支配し、19世紀まで生物的な世界観を牛耳ってきた。それほどまでにアリストテレスの伝統は強大であり、また説得力ももっていた。アリストテレスは形相(本質)は対象の外にではなく、具体的な個体(個物)の中にあると考えた。プラトンイデアは個体から超越しているが、アリストテレスの形相は個体に内在し、すべての個体は形相と質料が融合し、一体となったものである。アリストテレスは存在するものの変化を説明するために「可能態」と「現実態」という区別を考えた。そして、彼は可能態と現実態の間の変化を四つの原因によって説明した。アリストテレスは自然に四原因(形相因、質量因、機動因(起動因)、目的因)を認め、それらを使って事物の現実あるいは可能な状態とその変化を因果的に説明しようとした。それぞれの原因を家を例に考えてみよう。質料因は家を造る材料、石、木等である。形相因は家を造る設計者の心の中にあり、質料によって具体化されるデザインである。機動因は家を造る主体、つまり、建築家である。目的因は家を造る目的である。アリストテレスはこれらの異なる役割を下の表のように考えている。一見すると実に見事な説明に見える。だが、それはあくまで説明であり、個々の変化の実況中継ではない。実際の変化が映像だとすれば、アリストテレス風の説明はその映像についての説明でしかない。形而上学存在論だけでなくアリストテレスの学問に共通するのは、それが説明として優れているのだが、個々の現象や出来事を記述し、予測することがほとんどできない点である。私はその理由が自然言語だと既に述べた。自然言語は映像を言葉だけで再現はできない。これは何とも当たり前の自明の事実で、自然言語は叙述、記述を犠牲にして、説明を選択したのである。

形相因 物質的なものを現実化する、決定する、特定するものである。
質料因 それなしには存在や生成がない、受動的な可能態であるものである。
機動因 その作用によって結果を生み出す。それは結果を可能な状態から現実の状態に変える。
目的因 そのために結果や成果がつくられるものである。

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(ヒューム)

 もう一人の例がデイビッド・ヒューム。彼は因果性を空間的に隣接する二種類の出来事が伴って起きるとき、これら出来事の間に人間が生み出す結合関係のことだと考えた。つまり、物事はたまたま一緒に起きているだけであっても、人間が勝手に結びつきを考え、それを設定をしている、というのが彼の主張である。
 ヒュームの因果性に関する主張はその後改良され、「因果規則性説」と呼ばれてきた。その説によれば、隣接し、連続して起きる二つの出来事A、Bは、それを述べる普遍言明の文「Aならば、B」に組み込まれるとき、因果的に結びついている。これは、ヒュームの心理的要素を取り除き、その代わりに 言明記述の生成という点に着目した説で、科学の場で記述を作りだしてゆく方法やその問題点についての示唆も与えてくれる。では、本来のヒュームの考えはどうだったのか。
 ヒュームの最初のテーゼは、原因から結果を導く帰納推理(inductive reasoning)は,どんな仕方でも正当化できず,ただ経験的につくられた心の習慣にもとづく、という主張である。そして、対象や出来事の間の因果的必然性は、客観的な世界の側に実在するのではなく、主観的な心の習慣を世界の側へと投影したものに過ぎないと彼は考える。さらに、ヒュームによれば、自然法則は、それ自体として客観的な世界の側に存在するものではなく、対象や出来事の間の恒常的連接へと還元されねばならない。また、「対象や出来事の間に因果関係が存在する」という言い方は、本当は主観的な心のイメージを意味するにもかかわらず、あたかも客観的な世界の側に存在する因果関係を意味するかのように誤って理解されている。最後に、因果関係は客観的な世界の側には存在しないということから、因果関係を否定する懐疑論が導出されることになる。要は経験論的に因果関係を捉えれば、それは心の中で培われた習慣としての関係なのである。
 これらのテーゼが妥当であるならば,ヒュームは文句なしの懐疑論者。しかし、本当に彼は生粋の懐疑論者なのか。私が考えるに、因果関係を考察するヒュームの基本的な姿勢は、因果関係そのものに直接アプローチするのではなく、因果関係を理解するという私たちの実践の観点から、因果関係の本性を解明しようとする姿勢である。自然言語は因果関係を直接に記述できないことを認めるなら、それは納得できる姿勢である。自然言語が因果関係を克明に記述でき、それゆえ心的印象についても同じ記述ができるのであれば、客観的世界と主観的世界の二つについてそれぞれの記述ができることになる。因果性が心の習慣としか言えないことは正に自然言語が因果的過程を記述できず、説明しかできないことに起因している。

 以前私はコイン投げの力学的記述と確率的説明を対比的に議論したことがあった。コイン投げと言えば表と裏が50%の確率で出現するのが公平なコインの結果などとすぐに思ってしまうのだが、コイン投げという運動変化はれっきとしたマクロな力学的運動である。自然言語でこの力学的運動を記述できるかと問われれば、できない。コイン投げは運動の法則に従うが、それは関数的な数学言語によって表現することができる。一方、確率に関する話はやはり確率空間を使った別の数学言語で表現され、これも自然言語ではうまく表現できない。数学言語で表現された結果は、何とか工夫すれば、自然言語で説明できないことはない。ここから得られる教訓は多い。自然言語と数学言語の様々な表現が記述や説明の幅を見事に示してくれる。いずれにしろ、投げられたコインの「落ち方」の因果的変化は自然言語では表現できず、さらに、コイン投げの結果(裏か表か)についてもその十分な説明は確率論に従わなければならない。
 ヒュームの因果性の分析が誤ったのは因果の赤い糸は自然言語が表現できなかっただけに過ぎず、実際には赤い糸があったと実在論的に考えることは可能なのである。それが自然言語ではうまく表現できないだけであって、数学言語でうまく表現できれば私たちの態度は豹変する。関数形式の表現は赤い糸の存在を確証するデータにしっかり合致するのに対し、自然言語を使った場合はつまるところ「ならば」しかない。「AならばB」と表現してAとBの間の因果関係を表現しても「ならば」をさらに細かく分解する規則を誰も知らないのである。
 実験・観察における因果性が比較的わかりやすいのは、当事者が実験や観察のスタートから最後まで克明に追うため、因果過程が省略なく把握できるからである。さらに、前提の確認、単純な過程等々、コントロールされた因果過程によって雑音の入る余地が少ないのである。実験・観察の過程を見習うならば、原因Aから結果Bが出てくる過程について適切な表現をするには、文脈を限定し、長年の経験知識を活用する必要である。「風が吹くと桶屋が儲かる」が一見因果的に見えて、奇妙な系列なのは、「風が吹く」から「桶屋が儲かる」の間に介在するそれぞれの言明の文脈や状況がバラバラで、時間や空間も不定、出来事の間の「ならば」関係もそれぞれ異なっているからである。それらが統一されていれば「風が吹いても桶屋が儲からない」過程がすぐに見つかるはずである。
 崩壊、波束の収縮という量子力学独特の「現象」は観測と同時に起こる。物理世界だけでは生じない崩壊は私たちが物理系に働きかけることによって起こる、というのが標準的な解釈である。崩壊が起こり、シュレーディンガーの猫は生きているか死んでいるかが決まるのだが、その過程は「崩壊する」という自然言語の表現しかできない。それゆえ、この仮定は謎のままで、量子力学の哲学的研究課題になっている。

  アリストテレスもヒュームも、それぞれのターゲットが外の実在世界か内の心理世界かの違いがあるとはいえ、二人とも自然言語を信じ、それを使ってそれぞれの信じる世界について議論を展開した。いずれの世界であれ、そのダイナミックな変化はまずは知覚や印象の体験として捉えられる。知覚や印象は個人的経験だが、それも学習した経験という点で、擬似的な私的体験に過ぎない。「知覚の直接性」も実は学習の産物なのである。
 心の中の世界を描き切ることができると豪語する作家は少なくないが、それはいかに心の世界が離散的で粗雑なものかを示している。心の中を描けると自慢する作家も自然の変化は到底描けない。では、なぜ心の中は簡単に描けるのか。心の中の方が遥かに単純で貧弱だからである。心の中は人工的で、学習の結果に過ぎないから、言葉を尽くせば十分表現できるのである。心はその貧弱な中身のためか始終刺激を求めている。外の刺激を知覚することによって暫し心は潤されるが、忘れやすい心はさらに新たな刺激を求め続ける。心は自らの貧弱な世界をその刺激で埋めようと躍起になることによってしか生きる術を知らないのである。
 自然言語の利点はわかり合うための工夫にあるが、逆にそれが誤解の温床となるのが欠点なのである。刃物が利器であるとともに武器であるように、言語も長短併せ持つ道具なのである。20世紀の言語への関心はその能力への賞賛が多かったが、その能力は欠点でもあることを忘れてはならない。