文脈や状況に依存する錯視

 錯視となれば、ほぼ反射的に視覚心理学の主題だと分類される。錯視のデータと分類が記録され、そこから視覚のもつ特徴が炙り出され、今では様々な分野に応用されている。錯視図形は標識の効果的な図案に使われるかと思えば、絵画や彫刻でも人を驚かせる手法の一つとして活用されている。
 幾何学的な錯視図形がもたらすどこか味気ない印象は論理的に矛盾する言明の組み合わせに出会ったときの印象に似ている。幾何学的に不可能な事態と物理学的に不可能な事態は異なっている。特に、物理学的に不可能なように見える出来事となると、その出来事の引き起こす印象はずっと湿気のある朦朧体のような効果をもっている。
 幾何学の言明は文脈や状況が変わると、それに応じて変わるというものではない。だが、物理学的に不可能なように見える事態はそれがどのような文脈、状況にあるかによって変わる。さらに、その事態に遭遇する人の状況によっても変化するという厄介な面をもっている。それをわかりやすく次の四つの画像を使って考えてみよう。

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(1)

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(2)

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(3)

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(4)

 各画像の説明は後回しにして、まずは次のAからDまでの四通りの順番で画像を見てほしい(無理なことだが、前に見たものは一切忘れて見てほしい)。

A.(2)、(3)
B.(1)、(2)、(3)
C.(3)、(4)
D.(4)、(3)

 AからDの順番で画像を見ると、最初は(3)が錯視風景には見えないのに、次第に(3)が意図的につくられた錯視画像だと信じるようになるのではないか。読者にはゆっくり自分自身の視覚反応を楽しみながら確認してほしい。

 さて、ここで各画像の説明をしよう。(1)最初は典型的な錯視図形で、正常な視覚をもつ人ならほぼ等しく反応する。画像は螺旋状の渦巻のようにしか見えないが、同心円の重なりに過ぎない。(2)ゲートブリッジと対岸の煙筒という普通の風景で、これ自体は錯視画像ではない。(3)(2)の画像の一部ともいえるような画像で、煙突の煙が上の雲をつくり出しているかのように見えないことはない。(4)煙草の煙と道路がつながった、明らかに意図的な錯視風景である。
 なぜこのような込み入った状況を考えたかといえば、普通の生活では錯視図形だけが登場することなどなく、普通の風景の中に溶け込んでいて、注意を払わなければ気がつくことなどないからである。だが、「世界には何も驚くべきことなどない」というのは盲信でしかなく、実は謎に溢れているのである。それら謎に気づくほど暇ではないというのが普通の人の習慣に支配された生活なのかも知れない。
 このような日常世界に紛れ込んだ錯視を見つけることは、詳細な一覧がきちんと記録されている錯視図形を日常生活の様々な状況にうまく適用して実質的な効果を上げることにつながっている。錯視図形を使って世界を変えることは錯覚ではなく、実際の世界で起こっていることなのである。
 「化粧や衣装はどのように錯視を利用しているのか」、「錯視を利用した適応にはどのようなものがあるか」、このような問いは錯視が進化の結果として日常生活を支えていることを示唆している。