酔って驚くか、素面で退屈するか、君ならいずれを選ぶか?

(哲学的SFと言えば聞こえがいいが、酔っ払いの戯言かも知れないもの)
 旧約聖書の伝道の書1:9に「日の下には新しいものはない」と述べられている。これを古典的世界を暗示する表現とみてみよう。常識的で、月並みで、平凡な世界、それが「古典的世界観」と呼ばれるもので、新機軸なしの世界である。
 古い世代の退屈な思想、哲学が当然のものとして認めるのが古典的世界観。この世界観は何も驚くものがないというのが特徴であり、実はそれにどっぷり浸かって、安住できる人がいるということが非古典的中毒者には驚くべきことなのである。その保守的な古典的立場に異議を唱えるのは酒を飲んだ酔っ払い。このことからも非古典的世界観は酔っ払いの中毒者の誤った立場に過ぎず、保守的な古典的立場は揺るぎないものに見えるのだが…とにかく、その古典的世界観の特徴を先に見ておこう。
 素面の世界、日常の世界、平凡だが確実な世界、それを支えているのが古典的世界観で、次のような特徴をもっている。そこでは古典論理(classical logic)が成り立ち、概念の外延(extension)の境界は明瞭である。対象のもつ物理量や性質はいつでもどこでも一定の値をもつか決まっている。「何かがある」ことから「それを知る」こと、そしてその逆も原理的に可能である。これは実につまらない世界で、驚くべきことは何一つない世界である。だから、確実で不可謬の知識をもつことができるのだが、その知識さえ退屈極まりないのである。私たちが実際に住んでいる世界は確かにこのような特徴をもっているが、それだけではない筈だというのが偽らざる気持ちで、世界が刻一刻と変化し、社会や経済は変動し続けているという実感を共有している。つまり、私たちは変化が世界を支配しており、変化は退屈ではなく、一寸先は闇だと告げ、退屈どころではないと思っている。確かにそうだが、その変化も上述の古典的世界観の特徴を保有した変化であり、それゆえ、自然の変化はことごとく古典的世界観の中で探求され、解明されてきた。実際、量子力学が登場するまでの世界観は古典的であり、確実な知識に基づいて変化する世界を知り、理解するという枠組みは揺るぎないものと信じ込まれてきた。
 素面の世界から酔っ払いの世界へ入ると何がどのように変わるのか、私の中毒世界を描写してみよう。不思議の国のアリスは友だちで、彼女が酔っ払ったらもっと不思議な世界に入り込めたに違いない。残念ながら未成年のアリスには無理な話。素面の世界、酔い出した世界、酔っ払った世界の三つの世界を私は自在に経験でき、最後の世界こそ私が住むべき世界と思っている。だが、残念ながら酔いが醒めると最初の退屈な世界に戻ってしまうのである。
<酔っ払いの世界=非古典的世界のスケッチ>
 私が素面のときの世界では、どんな対象も区別でき、それゆえ複数の対象それぞれに異なる名前をつけて識別できる。だが、私が酔っ払った世界では、酔いが回るにつれ、そのような識別ができなくなっていく。その変化を簡単なモデルで表現してみよう。
 二つの箱と二個のボールがあり、ボールはそれぞれの箱に入れたり、出したりできる。完全に識別可能な、古典的世界では箱やボールに名前をつけることが難なくできるので、箱をAB、ボールをabと命名しておこう。この命名によって古典的なモデルをきちんと表現できるようになる。すると、酔いが回るにつれ、次のような3通りの状況を考えることができる。

(1)箱とボールの識別ができ、それゆえ、Aabが入り、Bが空の場合、Aaが、Bbが入る場合、Abが入り、Baが入る場合、Aが空で、Babが入る場合の四通りの可能性がある。これが当たり前の古典的世界の可能性で、4通りの場合がある。
(2)箱は識別できるが、ボール2個は全く同じで識別できず、それゆえ、a = bとなり、(1)の「Aaが、Bbが入る場合、Abが入り、Baが入る場合」が識別できず、同じ場合と考えなければならなくなる。半分酔ったときは、3通りの場合がある。
(3)箱もボールも識別できなくなると、A = Ba = bなので、(1)の「Aabが入り、Bが空の場合」と「Aが空で、Babが入る場合」とが識別できず、同じ場合と考えなければならなくなる。酔っ払ったときは、2通りの場合しかない。

 さて、ここでそれぞれの場合に、「両方の箱に一個のボールが入る可能性」を問われたとき、(1)では2/4、つまり1/2である。(2)では2/3、(3)では1/2となる。「二個のボールが一方の箱に入る可能性」を問われるとき、(1)は1/2、(2)は1/3、(3)は1/2。素面のときに「Abが入り、Baが入る」可能性はどのくらいか問われ、酔っ払ってから答えようとすると、その問いは無意味だとしか答えられないことになる。
 また、酔っていて周りで何が起こっているかわからないとき、実際に何も起こっていないとしか言いようがなく、起こされて気づいたときしか世界が存在しないとしか言えない。常に覚醒しているなら、見えていないものも見えている場合と同じように存在していると断言しても自信があるのだが、酔っている場合は見えていないものはないというのが無難な答えになる。
 「ある、存在する」ことと「知る、わかる」こととが一致できるというのが古典的世界観を支えているが、酔っ払いにはそれは通用しない。酔って気づかないものは文字通り存在しないのである。古典的な世界では見ること、気づくこと、わかることが存在することに準じるので、個人の経験は確かめるのに使うのであって、存在をつくるためではない。しかも、それは個人差なしに決まっているので、何ら目新しいものは見つからず、退屈でつまらない世界ということになる。「見る、知る」ことによって何かが生み出されることのない世界は退屈で、つまらない世界である。
 酔っ払いの世界は酔っ払い方に応じて世界の存在が異なることになり、その都度新しい世界が経験できるのである。そのためか、世界は尽きせぬ魅力に満ちていることになる。

 では、いずれの世界観が適切なのか。「素面か酔っ払いか」と問われた場合、まともな大人の解答は意外に明確で、「素面の時には古典的、酔っ払ったときには非古典的」と言うのが分別ある答えなのだろう。古典的、非古典的の区別は文脈、状況依存的であり、相対的な答えで差し支えないというのが現在の模範解答。確かにそうなのだが、皮肉を言えば、それは二枚舌、二重基準の答えである。とはいえ、酔っ払いの世界を否定することは明らかに間違いで、古典的世界観は正しくないのである。