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私たちの視覚内容は錯視だらけ

  錯視は視覚学習の副作用。錯覚を拡大解釈すれば、知覚とはそもそも錯覚なのだと考えるのがかつての哲学的な認識論である。というのも、視覚は実在の反映ではなく、視覚像を生み出すものであり、そのつくられた像は実在ではないという意味で錯覚だからである。
 さて、実在するものとその視覚像が異なることが錯視で、それは視覚器官の不具合、誤作動だというのが常識的な理解である。だが、全員が不具合の視覚像をもつということはあり得ないから、かつての認識論に従えば、錯視は正しい認識の仕組みの結果ということになる。「全員が誤る視覚像」という概念自体は極めて不自然でも、錯視は生得的に組み込まれた不具合ということになる。

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 「錯視は誤った視覚である」ことは視覚によって判断されるのではなく、物理学のような知識によって確認できることである。その例を取り上げてみよう。地平の月と真上の月を望遠レンズのついたカメラで撮ってみると、月は同じ大きさに写る。あるいは,5円玉の穴から月を見れば、どちらの月も同じように穴の中に収まる。だから,月の大きさの違いは,眼に入った情報の処理過程で起こっていることになる。この現象が錯覚だということに気づいている人は多くない。これは心理学的な錯覚で、「月の錯視」という名で呼ばれている。月だけでなく,太陽でも星座でも起こる。だから、別名は「天体錯視」。この錯視が起こる理由は、アリストテレス以来たくさんの学者が考えてきた。研究の歴史は長いが、なぜ起こるかは完全に解明されているわけではない。1960年頃ロックとカウフマン(Rock, I. & Kaufman, L.)は、ハーフミラーを使って、無限遠にあるように見える月の像を作り、それをさまざまな風景と重ね合わせて、被験者に見せる実験をした。その結果は、月までの見かけの距離が大きさの錯視を生み出しているというものだった。二つの対象が同じ長さや大きさで眼の網膜に映っていても、一方の対象が他方の対象の二倍の距離にあれば,その実際の長さは他方の対象の二倍のはず(いわゆる「大きさの恒常性」)。月の場合にも、網膜像の大きさは同じだが、真上の月に比べると、地平の月のほうが見かけの距離が遠いので、脳は地平の月のほうを相対的に大きいように見るというわけである。この説は多くの教科書にも掲載されたが、地平の見えない暗黒中でも月の錯視が起こるなど、反証も多く出されている。
 ロスとプラグ(Ross, H. E. & Plug, C.)は、これまでのさまざまな実験の結果を総合的に検討し、月の錯視が単一の要因によるものではなく、眼位や頭位、姿勢、そして地平のものの見えなどの要因が総和的に寄与していると推測している(Ross, H. E., & Plug, C. 2002, The mystery of the moon illusion: Exploring size perception. London: Oxford University Press.後藤倬夫・田中平八編、2005『錯視の科学ハンドブック』東京大学出版会
 視覚の歴史を見ると、専門外の研究者が重要な発見をしている。まずは、化学者ジョン・ドルトン。彼はドルトンの法則、倍数比例の法則、原子説を提唱したが、実は色覚障害を持っていて、彼の最初の論文は「色覚に関する並はずれた事実」だった。ドルトンは、緑の錐体細胞があるはずのところに赤の錐体細胞があるという2型2色覚の色盲だった。次はドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーケプラーの法則で有名だが、天体の動きを理解するために視覚に関心を持っていた。解剖学者のフェリクス・プラテルの眼球モデルに光学のルールをあてはめた視覚理論を主張した。デカルトは著書の『屈折光学』のなかでケプラーの主張した光学を図式にして表している。デカルト自身、オウシの強膜と脈絡膜をはぎ、その眼球を使って紙片の上にイメージを投影したことがある。最後はエルンスト・マッハ。彼の業績の一つは移動する物体が音速を超えると何が起こるかを明らかにしたことで、超音速航空機のスピードは音速を基準にした「マッハ数」で表される。彼は視覚の奥にあるメカニズムを明らかにして、視覚と認知と神経システムに対する理解を変革した。

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 マッハは少しずつ明るくなっていく灰色の帯を並べたときにできる錯視(マッハ・バンド)の解明を試み、眼が関心を向けるのは境界だと気づいた。そして、網膜の隣接する部分がどのように作用しあってマッハ・バンドの錯視を作り上げるかを示唆した。
 
 幾何学的図形を見て正しく答えることを考えてみよう。A4 サイズの紙に描かれた三角形、正方形、長方形、円を見たとき、50cmほど真上から見るとどの図形もほぼ描かれた通りに見え、見えた視覚像は描かれた図形と同じである。だが、斜め上1mほどから見ると、視覚像はどうなるだろうか。正方形の視覚像は台形に、円の視覚像は楕円に見えるだろう。図形を見る際にどこに視点を置くか、どこから見るかに応じて、視覚像、つまり見える形は変わってくる。

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 だが、今のような場合、私たちはその違いを敢えて無視して答える。だから、その答えは正方形、円となり、見えた通りに答えると間違いとされる。つまり、楕円に見えても円と答えるのが正しく、楕円と答えると怪訝な顔をされるか、錯視と非難されかねない。私たちの知覚は複雑な作業の塊であり、学習できる精密機械であるから、正方形や円に見えなくても、適切な視点から見れば正方形や円なのだと計算するのである。

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 既述のFraser's Spiralの錯視も見えている通りに渦巻だと答えると、そうではなく実は同心円で、にもかかわらず誰にも渦巻にしか見えないので錯視だと説明される。この錯視を上の正方形と円の場合と丁寧に比較してみよう。対象は正方形、円、そしてFraser's Spiralの一つ。私たちの視覚像は台形、楕円(正確には下膨れした楕円)、渦巻く模様。対応は驚くほど一致している。私たちに見えるのは台形なのに、本物は正方形、一方、渦巻く模様が私たちに見えるが、本物は同心円の輪。
 ところが、Fraser's Spiralは錯視だが、台形も楕円も錯視とは呼ばれない。ならば、Fraser's Spiralも錯視とは呼ばず、丁寧に観察し、確認すれば、それは同心円の束に過ぎないと言ってもよいのではないか。
 既によく知られ、あちこちで有名になっている錯視図形や錯視絵画はそのトリックが明かされている。そのトリックにしっかり順応すれば、錯視ではないのだと私たちの知覚は学習してしまう可能性をもっている。知り尽された錯視は錯視ではなくなるのである。氷上での3回転や4回転のジャンプは普通の人には不可能な技だが、それさえも訓練すれば可能になる。その程度の差しかないのが錯視かそうでないかの差である。スケートは実際には無理でも、想像はいくらでもできる。台形や楕円を見ても正方形や円だと知覚することは想像だけでなく、実際にできるのである。事実、私たちは紙の画像をそのように見ている。
 こうして錯視は訓練によって錯視ではなくなることが可能。知覚が学習であれば、さらに学習することによって錯視は錯視ではなくなることができるのだが、残念ながら多くの錯視画像を普通の画像として見るには氷上で5回転や6回転するようなもので、今のところは想像することしかできない。どれほど訓練しても私たちは空を飛べないように、錯視の中にも訓練ができないものがある。それは進化の途上で選択した結果なのだと受け止めるしかない。
 錯視が見つかり、そのからくりがわかり、相当の訓練がいるとはいえ、その訓練の結果錯視は克服されて錯視ではなくなることが可能なのである。日常世界の視覚は錯視だらけなのだが、学習によって私たちはその不都合を理解し、知識を使うことによって克服してきたのである。