読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

錯視と日常生活

 視覚の生き物である人間にとって、錯覚の中でも圧倒的な効果をもつのが錯視。普通の生活では錯視図形だけが登場することなどなく、それらは日常風景の中に溶け込んでいて、注意を払わなければ気がつくことなどまずない。だが、「世界には何も驚くべきことなどない」というのは盲信でしかなく、実は日常風景は錯視の謎に溢れている。それら謎に気づくほど暇ではないというのが普通の人の毎日で、習慣に支配された生活は謎を覆い隠し、眼前の平穏を保つのである。
 このような日常風景に紛れ込んだ錯視を見つ出すことは、詳細な錯視図形カタログを充実させ、それを日常生活の様々な状況にうまく適用して実質的な効果を上げることにつながっている。錯視図形を使って世界を変えることは錯覚ではなく、実際の世界で行われているありふれた活動であり、今やビジネスとしても立派に成り立っている。
<企てられ、仕組まれ、利用されている錯視>
 偽物を本物と思わせる詐欺やコピー商品は錯覚を巧みに利用しているのだが、本物も実際は私たちの知覚に訴え、知覚を利用したもの、さらには私たちの経験の仕方を抜け目なく利用したものである。私たちが何かに気づく、何かを意識する事を利用しない手はなく、それが私たちの生活、つまりは衣食住を生み出してきたのである。特に、嗜好品や高級品には私たちを惹きつける手練手管が溢れている。その極め付けが工芸品であり、芸術作品である。芸術は私たちの錯覚を含めた知覚を利用して「本物」を表現しようとする。

f:id:huukyou:20170223090346j:plain

ルネ・マグリット「これはリンゴではない」1964)

 「化粧や衣装はどのように錯視を利用しているのか」、「錯視を利用した適応にはどのようなものがあるか」、このような問いは錯視が文化を含めた進化の結果として日常生活を支えていることを前提にしている。人間が現実だと思っているものは脳が環境を解釈した結果と言われるが、その解釈は必ずしも正確ではなく、主観的判断と客観的事実との間にはいつもズレがある。そのズレが顕著に現れた一つが錯視である。中でも形と大きさの錯視の研究は 19 世紀以来の長い研究史があるが、錯視はもっぱら幾何学図形を中心に研究されてきた。しかし、錯視は日常生活のあらゆる場面に溢れている。それを積極的に活用している分野の代表格はファッションと化粧だろう。ある種の服を着るとスリムに見えたり、化粧の仕方によって目が大きく見えたり、ヘアスタイルを工夫することによって小顔に見えたりすることは正に錯視。メーキャップ・アーティストが見出してきた化粧の経験則は多数あり、それらの実証的・定量的な知覚心理学的研究は企業を中心になされ、膨大なデータが蓄積されている(下着会社は日本女性の体型を熟知しているし、食品会社は日本人の食生活をリードしている)。
 錯視を衣食住に使うとなれば、錯視をなくす方向と増やす方向の二つの利用の仕方が考えられる。「錯視量」を減らすことは、身の回りの状況を正しく認識できる環境を整備することにつながる。つまり、状況を誤認することが原因となって起こる事故、道路傾斜の誤認が原因となって起こる渋滞などを回避するための指針、誤解を生み出す誇大広告を規制するための指針などを与えることができる。第二の錯視量の最大化では、錯視効果を増幅することによって、新しい視覚表現の方法を開発し、生活を豊かにすることができる。具体的には、標識を目立たせることによって見落としを防止する、錯視を利用して新しいエンターテイメント手段を提供する、錯視効果を利用した新しい芸術表現を提供するなどに活用できる。

f:id:huukyou:20170223090511j:plain

f:id:huukyou:20170223090541j:plain

ルネ・マグリット「偽りの鏡」1935)

 顔に関連する錯視の量は心理物理学的に測定してみても決して大きくない。だが、現実には大きく変わったという印象を受けることが多い(だからこそ 化粧品は売れる)。では、なぜ化粧の錯視はわずかな効果で大きな印象の違いを生じるのか。顔の識別は社会生活における対人判断で重要な役割をもつため、顔貌における視覚システムの識別感度が非常に高くなっているからだろう。視覚システムが顔や身体の微妙な差に対してチューニングされていて、互いに似かよった多数の顔を識別するために、人間の視覚システムは学習によって顔に対して極めて敏感になっているのだろう。
 「錯視」は真正の視覚とは違って誤った視覚、錯誤による視覚だと思われている。誤り、錯誤であることは実在との対応によってわかる。二本の同じ長さの線分の両端の矢印の向きによって線分の長さが違って見えるのがミュラー・リヤー錯視。それが錯視であるのは、本来の二本の線分が同じ長さという実在レベルの測定結果があるからである。これが錯視対応説だが、整合説の錯視解釈は知識との不整合であろう。整合説によれば、知識との不整合が錯視。二つの説はかけ離れたものではなく、知識を具体した例が個々の事実であり、それと錯視の例が対応する、と考えることができる。ここでの知識は実験、観察中心のものである。
 錯覚の解明は、知覚現象を科学知識によって説明するという一般的な方法がそのまま適用されているが、それだけでなく、かつては直観的に、今では科学的にその結果を縦横無尽に活用している。人間は科学よりずっと賢明に、そして老獪に錯覚を使ってきたのであり、それが人間社会の中核をなしてさえいるのである。その人間の本性(human nature)は昔も今も変わらない。