住めば故郷:変貌する故郷と私と…

 このところ我が家の周りで工事が増え出し、数えれば十指に余る。人は自分勝手なもので、歓迎すべき工事から、嫌悪する工事まで自己流に様々に判断してしまっている。そんな自分勝手が積み重なって、清掃工場や火葬場の建設は嫌われ、商業施設や図書館などは歓迎されることになる。
 呑気な私には建設工事は総じて好ましく映る。学校、公園、競技施設等々、盛りだくさんの工事が進行中なのだが、私の若い頃の工事現場に比べると隔世の感がある。どこもとても紳士的な現場と言いたくなるほどで、綺麗で静かで、安全に配慮されている。どうせなら工事用の塀に自由な落書きを許すとか、完全防護で中の建物を一切見せない意地悪をするとか、何がしか僅かな工夫があると楽しい工事現場になるに違いない。
 建物ができ、その周辺の公園などが整備され、いつの間にか街並みができ上がっていく。完成すると、かつては海の底だったなどとは誰も想像できなくなる。昔の海辺は立派な街並みに変貌し、いつの間にかそこで生まれた子供たちの故郷になっていく。私が以前住んでいた市川の福栄は江戸時代の埋立地だったが、私の子供たちには立派な故郷の役割を演じてくれた。「埋立地への愛着」とは奇妙な謂い回しで、生まれ故郷の山や川といった月並みな対象とは随分と違った印象を与えるはずである。元来海底だったところが自分の故郷というのは果たしてどのような気持ちなのか。妙高で生まれた私には最初ピンとこなかった。私が生まれる遥か以前からあった山や川とは違って、生まれる暫し前に埋め立てられた土地が故郷なら、それはどのような意味での故郷なのか。むろん、海の傍で生まれた人には「…海岸」は我が故郷と胸を張ることができるのだが…
 故郷は土地がなければ存在しない(というのが常識)。どんなに小さな島でもそれは土地であり、さらにそこに山や川、田畑があれば御の字である。小さな島の段々畑は私の中の典型的な故郷像で、きっと昔観た映画の影響なのだろう。東南アジアには海上生活者の集落が海の中にあるが、彼らの故郷は海上に浮かぶ家々なのだろう。チチカカ湖に浮かぶアシの島は確かに故郷の風情をもっている。「江戸前が故郷」と叫ぶのは、東京湾で魚を獲ったり、海苔の養殖をした人たちだろう。住めば都で、どこでも故郷になり得るということらしい。それに賛成しよう、今暮らしているところが我が故郷。
 工事中の我が家の周りは2020年頃にはすっかり変わっているだろう。2,3年ですっかり変わった風景が出現することも故郷への期待である。昔懐かしい故郷も大事だが、数年後に変貌している新しい故郷も興味津々。私のような老人にとって、故郷の変化に応じて変わっていく自分を想像することは、昔の故郷に自分を置いて懐かしむこと以上に健康的なことだと思っている。故郷と共に変わる自分、故郷に追いつき、時には一緒に駆ける自分を想像しながら、変貌を続ける故郷で暮らすのはスリリングでもある。
 現在は我が家の周りも私も共に工事中。互いに競い合いながら、忙しく変貌を遂げようとしている。
(画像は有明アリーナと有明体操競技場の工事が始まる直前の建設予定地と完成図)

f:id:huukyou:20170224062516j:plain

f:id:huukyou:20170224062536j:plain

有明アリーナ)

 

f:id:huukyou:20170224062557j:plain

f:id:huukyou:20170224062614j:plain

有明体操競技場)