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光速度不変の原理:光の速度は誰がどのように測っても変わらない

 光速度不変の原理は、アインシュタインの特殊相対論の基本原理のひとつで、「光の速さは観測者がどんな運動状態にあっても変化しない」というもの。静止して光を観測しても、移動しながら光を観測しても、光の速度は常に秒速30万キロと測定されるというのが光速度不変の原理。例えば、時速100キロの電車を静止したまま観測すると、その速度は時速100キロ。だが、時速50キロの車で時速100キロの電車を後ろから追いかけながら観測すると、電車の速度は時速50キロと測定される。また、時速50キロの車で時速100キロで走ってくる電車に向かって走りながら観測すると、電車の速度は時速150キロと測定される。だから、電車の速度は観測者の速度が変わると不変ではない。
 移動する車から見た電車の速度は電車の「相対速度」。光速度不変の原理によれば、「光の相対速度は秒速30万キロで不変」なので、光を静止したまま観測しても、秒速15万キロで並走しながら観測しても、光と同速度で光に向かって観測しても、光の相対速度は秒速30万キロで変らないということになり、電車の場合と違って、通常の算術が成り立たない。これは、どう考えても非常識な原理に映る。
(日本のような狭い島でせいぜい馬に乗って走る程度の速さしか経験できない場合、光速度不変の原理を非常識極まりない誤りだと考える人がほとんどだろう。それでも太陽の光を仰ぎ、流れ星を見て、その速度を想像する人はいるもので、そんな人の中には光の速度をアインシュタインと同じように考える人がいるかも知れない。非常識だが、わかりやすいことこの上ないのが光速度不変の原理である。)
 この非常識さ加減は相当なもので、光速度不変の原理は「真空中の光の速度は全ての慣性系で同じ」という真っ当な主張であるにも関わらず、世の中でこれほど批判され、攻撃を受けた原理はないだろう。「光速度不変の原理は間違っている」、「光速度不変の原理には根拠がない」、「光速度不変の原理は証明されていない」といった批判が溢れている。このような批判、攻撃は意味がないことを示すために、基本原理とはどのようなものか見直してみよう。
 光速度不変の原理の説明によく使われるのが、「マイケルソン・モーレーの実験」。1887年にマイケルソンとモーリーによって行われた実験で、地球の進行方向とその直角方向で光の速度が違うことを検出しようとした。その結果、予想されていた差が検出できず、これが光速度不変の原理の確証だと説明されることが多い。アインシュタイン自身はこの実験の結果は知らなかったようで、この実験結果によって光速度不変の原理を提唱したわけではない。したがって、「マイケルソン・モーレーの実験」の実験法や結果の解釈を批判しても、それは光速度不変の原理が間違いだという根拠にはならない。
 では、光速度不変の原理は実証されていないのか。マイケルソン・モーレーの実験はあくまでも地球の進行方向に対する光の速度のずれを測定し、実験誤差範囲内では差が見られなかったことを示しているだけ。「真空中の光の速度は全ての慣性系で同じである」などということを証明する実験結果ではない。
 そもそも、全ての慣性系で光の速度が同じであることを実証することは不可能。全ての慣性系で実験することもできなければ、誤差なしで光の速度を測定することもできない。光速度不変の原理が実証されていないのは、それゆえ、当たり前のこと。それは、他の物理理論でも同じことなのに、何故か光速度不変の法則だけが、そのことを欠点のように言われてきた。
 そもそも、物理学の基本原理は「仮定」である。特殊相対論は「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」が物理世界で成り立つと仮定したときに、そこからどんな結果が導かれるのかを述べる理論である。基本原理から得られる結果が実験値と合うかどうかを確認していき、実験値と整合する結果が積み重ねられることによって、確証されていくというのが物理理論。論理的には、基本原理には証明も根拠も必要ない。だから、「光速度不変の原理は立証されていない」という主張は無意味なのである。それは光速度不変の原理に限らず、どんな仮定でもそれを立証することは不可能。その原理を支持する実験結果がどれほど沢山あっても、立証したことにはならない。
 あることが正しいことは、実験結果をいくら積み重ねても証明できないが、それが間違っていることを証明するには、結果が一つあればそれで十分。確証ができなくても、反証は実に簡単なのである。光速度不変の原理が間違いだと主張するのであれば、他の科学者が再現可能な追試によって確かめることができる反証を示せばいいだけのことである。
 原理がなりたっていることを裏付ける実験は必要である。光速度不変の原理で言えば、実際に光速度を測定して確認するようなこと。どうやって測定すれば精度の高い結果が得られるか、それこそ実験物理学者の腕の見せ所。だが、それだけでは限界がある。光速度が一定かどうかという実験は、現在のところ地球上(せいぜい衛星軌道)で行うしかないので、全ての慣性系のうちのごく狭い部分だけである。だから、原理そのものだけではなく、原理から得られる帰結を実験で確かめることも必要。原理そのものでは実験できる範囲が限られているが、その原理から導かれる結果を間接的に実験で確かめることができる。精密な実験ができる方法を考案すること、これも物理学者の大事な仕事。そして、そのような結果を積み重ねることによって、「この理論は確からしい」という信念が次第に認められていく。
 特殊相対論は「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」のふたつを基本原理としているが、他の原理を基本原理に置いて、特殊相対性理論と等価な理論を作ることもできる。等価な理論とは、どんな推論、計算をしても特殊相対性理論と同じ結果が得られる理論のこと。等価な理論では、結果が同じなので「どちらが正しい」などと議論すること自体ナンセンス。基本原理として他の原理を採用すると、「光速度の不変性」はその原理からの帰結となる。だから、その場合は「こういう理由で光の速度が不変になる」という説明ができる。
 物理理論は、できるだけ単純で、できるだけ少ない原理から理論を構築するのが望ましいとされている。特殊相対論は、単純な二つの原理から出発しており、その要件を満たした理論であることは確かである。

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アインシュタインローレンツ

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ポアンカレ

 アインシュタインが特殊相対論を発表しなくても、近い時期に特殊相対性理論と等価な理論が完成したことは間違いない。ローレンツポアンカレの研究は、特殊相対論とほぼ同じ結論に到達していた。特殊相対論の基本的な数学的形式である「ローレンツ変換」はすでに導かれていた。これが成り立つのであれば、そこから導出される結果は特殊相対論と変わらない。
 特殊相対論から導かれる奇妙な結果は、当時の科学者たちにとってそれほど奇妙なものではなかった。特殊相対論が衝撃を与えたとすれば、当時の理論とは違った視点で理論を構築したことである。何ともわかりやすい原理からローレンツ変換が導かれるのである。もしかしたら、特殊相対論を説明するとき、もっと哲学的で、訳の分からないものを基本原理にして、複雑そうな理論にしておけば、これほど攻撃されることはなかったのかも知れない。