なぜ「光速度不変の原理」なのか?(何とも退屈な要約)

 古典力学と違って相対論では「光速度不変」が原理の一つ。それが相対論を独特なものにしている。そこで、光に関する歴史を振り返り、なぜアインシュタインが「光速度不変」を原理としたのかを探ってみよう。光の速度は非常に速く、測定は不可能と思われていた。光速度の測定は、光が粒子か波動かを決める上でも重要な意味をもつ。だが、光速度に関する知見が蓄積されていくにつれ、互いに矛盾する結果が出始める。
<光の正体は粒子か波動か>
 光とは何か。誰もが子供の頃にこの問いを発するのだが、古来さまざまな解答が考えられてきた。近代的な光学研究の始まりはデカルトで、1637年に光の直進性・屈折・反射などの法則を記している。そのデカルトが採用したのが粒子説。粒子説で屈折の法則を説明すると、媒質中では光の速度は速くなる。一方、1690 年ホイヘンスは「光についての考究」において、光の波動説を主張し、光の媒質としてエーテルを仮定した。彼は光をエーテルを伝わる縦波(疎密波)とし、波面各点から発する素元波の干渉として回折・屈折・反射の諸現象を説明した。それによると、媒質中の光の速度は遅くなる。ニュートンは1704 年、『光学』を著して光の粒子説を唱える。ニュートンは、光の媒質としてエーテルが充満していれば、それが惑星の運動に影響しないはずがないと考え、波動説を否定した。今では干渉の結果として説明される「ニュートン・リング」も、光の粒子が「透過の発作」と「反射の発作」の状態を交互に行き来するものとして説明された。1801年ヤングによる干渉実験が行われ、光が実際に干渉することが確かめられる。これは、光の波動説を強く支持し、光の「波長」を具体的に測定する方法を与えた。そして、マクスウェルの理論とヘルツによる電磁波の観測は、光を電磁場の波として解釈することを可能にした。これによって、光の波動説は確固たる立場を固めるのである。
光速度の測定>
 ガリレオは光の速度が有限だと思っていたが、残念ながら彼の時代にそれを測定することはできなかった。光の速度が速すぎ、彼は地上を光が伝わる速度を測ることができなかった。光の速度が現実に測定可能となったのは1676 年。木星の衛星の食に関する観測から光の速度が有限であることをレーマーが確かめた。そこで、粒子か波動か、その差が現れる現象として、光に対する観測者の運動の影響が問題になった。光が粒子ならば、運動する観測者から見た光の速度は、速度の引き算として観測される。一方、光が波動ならば、ドップラー効果のように「媒質に対する運動」が観測されるはず。当時得られる最高の速度は地球の公転運動だったから、地球の運動による見え方の違いを検出するのがもっとも影響を見出しやすい。この実験は1725 年にブラッドレーによって行われ、実際に星の見える方向が地球の公転運動によって変化して見えることが確認された。これが「光行差」。これは粒子論的解釈では、単純な速度の合成によって説明される。波動論的解釈でも、地球の運動にまったくエーテルが影響を受けないとするならば、光行差は説明できる。この場合は粒子論と同じく、方向が異なって見えることになる。そうなると物質の運動とまったく無関係に静止しているエーテルが宇宙に充満していることになる。
 1849 年にフィゾーによって、始めて地上で光速度の測定がなされた。さらに、フーコーは1850 年に空気中と水中における光速を比較し、水中において光速が遅くなることを確認し、光の波動論が支持されていくことになる。光の波動論に数学的な基礎を与えたのはフレネル。フレネルは光の回折現象を波動論の立場から説明した。また、それまで光は縦波と考えられていたが、偏光現象の研究から光が横波であるという結論に達した。光が波ならば、進行方向に対して振動の方向は二種類考えられるから、偏光や複屈折の現象を説明できる。しかし、気体や液体のような流体は、横波を伝えることができない。そうなると、エーテルは固体ということになり、光速度の大きさからいって非常に硬い性質をもっていなければならない。もし光が静止するエーテルの中を進む波動であるならば、地球の運動によって光の速度が異なって見えるはず(光行差)。つまり、公転運動の速度と光の飛んでくる方向が逆向きならより大きな光速が、同じならより小さな光速が測定される筈である。アラゴーはこれによってレンズの焦点距離が変化することを予想して実験したが、結果は否定的だった。
 光に対するドップラー効果は、1862 年ハギンス夫妻によってシリウスのスペクトル観測から検出された。だが、これは恒星の運動が、そこから放射される光の波長に影響を与えることがわかったというだけのことで、それが「音のドップラー効果」と同じ式になるかどうかを明らかにするものではなかった。さらに、これはエーテルに対する運動ではなく、光源と観測者の相対運動によるものであると解釈することも可能だった。ドップラー自身、光の波動説にさまざまな困難が生じることを指摘していて、このことが直ちに光の波動性やエーテルに対する運動の証拠として取り上げられたわけではない。だが、その後の観測精度の向上により、光のドップラー効果は天体の固有運動を知る重要な手がかりとなった。
 エーテルに対する「絶対運動」の証拠は測定されなかった。マイケルソンの最初の実験は十分な精度を満たすことはできなかったが、ローレンツやレイリーらの助言もあって、注意深く設計された実験装置によって必要な精度を実現することに成功したが、結果は地球のエーテルに対する運動の効果を否定するものだった。
 アインシュタインはこのマイケルソン・モーリーの実験を決定的なものとは考えていなかったが、エーテルに対する運動が観測されないことの証拠の一つとしては認識していたようである。光の波動説を支持する証拠が次々と積み重なっていく一方で、その媒質としてのエーテルについては、様々な性質が付与されていった。光速を伝えるほどに硬く、横波を伝える固体である一方で、惑星などの運動には影響しないほど希薄。そのようなエーテルの性質を整合的に組み立てて力学的に説明することは困難だった。
<電磁気現象の「相対性」>
 エーテルには光の媒質としての「エーテル」、電磁気を伝える媒質としての「エーテル」があり、後者が「電磁的エーテル」。電磁気学の発展の中で電磁気現象の相対性の問題について見ていこう。
 1800 年のガルバーニによる「動物電気」の発見以降、急速に電気化学的な知見が増えていくが、原子・分子といった物質の粒子的要素に対しては懐疑的な態度がまだ強く存在していた。実際、イオンや電子といった概念だけでなく、電荷の単位性(素電荷の存在)も明らかになっていなかった。だが、電気分解、電流による磁場の発生、電磁誘導など、電気・磁気に関する研究は急速に進んでいき、それを数学的にまとめ上げたのがマクスウェルの電磁気理論。これは現在とは大きく異なり、電場や磁場といったものは、物質のある状態・変位として想定された。現在では物質と電磁場は独立のものとして考えられているが、当時はあくまで物質に付随するものと考えられていた。
 また、マクスウェルは近接作用論の上に電磁気学を構成しようとしたが、ポテンシャルの概念などは遠隔作用論的で、一貫性に欠けていた。この不整合はヘルツやヘビサイドらによって、ポテンシャルをまったく消去した電磁場の方程式が書けることと、いわゆる「ゲージ変換の任意性」の認識によって解決されていくことになる。「真空」が電磁気を伝えるならば、そこには物質と同様に電気的緊張と分極を起こす何かが存在するはず。そのような性質を担うものとして「電磁的エーテル」が考えられた。電磁場の方程式から予言される「電磁波」の速度が、計算上当時知られていた光速度にほぼ等しいことから、光は電磁波であろうと予測された。そして、ヘルツの実験により電磁波の存在が確かめられた。この結果から「光学的エーテル」と「電磁的エーテル」は同じものと考えられ、二つは統合される。だが、その電磁場の媒質としてのエーテル説には困難な点が多く、その中でもっとも大きな困難は電磁気現象の相対性だった。
 アインシュタインが1905 年の論文で最初に問題にしたこと、それは電磁気の相対性。電磁場を伝える媒質としてのエーテルを考えた場合、その中で磁石なり電荷なりを動かしたときに、「エーテルに対する運動」が現象の現れ方に影響するはずで、例として電磁誘導について考えてみよう。これはコイルに磁石を近づけたり離したりすると、コイルに電流が流れるという現象。この現象では磁石を動かすのか、コイルを動かすのかということは関係ない。双方が近づくのか離れるのか、という「相対的な運動」のみが現象に現れる。これは、媒質中を電磁場が伝わるという考え方と相容れない。もし電磁場がエーテルを伝わるものならば、同じように「エーテルに対する」速度というものが現れるはずだが、そうはなっていない。
 運動する物体とエーテルとの関係も困難な点があった。ヘルツは、運動する物体中ではエーテルは完全に同伴して動くと仮定した。これは運動する導体については正しい結論へ導くが、誘電体の場合は違った。コンデンサーの間に誘電体をはさむと、誘電体の表面には誘導電荷が現れる。これを運動させれば、それが電流となり、その電流は磁場を生むはずである。その結果、エーテルは物質の運動に完全に同伴するという説は、誘電体においては否定される。このように誘電率によってエーテルの同伴具合が変わるというのは、フレネルの随伴係数に似ている。このような実験では、二つの物体の「相対運動」だけが結果に現れ、決して「エーテルに対する運動」が現れることはなかった。
電磁気学の整備とローレンツ電子論>
 19 世紀の終わりの大発見の一つは、陰極線の発見に端を発する電子の発見。当初、光線の一種と考えられていた陰極線は、電場や磁場によって影響を受けることなどから次第に電荷を持つ物質的なものであることがわかっていく。また、ミリカンなどによって電荷には最小単位(素電荷)が存在することが明らかになった。実際の測定を通じて、電子の質量が水素原子の約1830 分の1 であることが明らかになる。非常に小さい物質が電荷を担っていることによって、連続的な物質観に代わり、荷電粒子とそれをとりまく真空という考え方が生まれることになる。
 電磁気現象の相対性を保つために、電磁場などの変換を最初に問題にしたのはローレンツローレンツの電子論における大きな転換点は、物質と電磁場を分離したこと。それまで電磁場は物質に付随する性質として考えられてきた。しかし、電荷を担う実体が電子という微小な粒子であるならば、電荷とそれによって周りの空間(エーテル)に作られる電磁場というように分離して考えるべきである。さらに、運動する物体では運動の方向に収縮がおこるとすれば、それまでの光速に関わる実験を説明できる。そして、時間も「局所時間」を導入すべきということにたどり着いた。
 こうした実験結果を近似ではなく、厳密に光速度を保つべきだとしたのはポアンカレポアンカレのこの主張を受けて、ローレンツは厳密に光速が不変になる場合に要請される変換式を導いた。これが「ローレンツ変換」。さらにポアンカレはこれを群論を用いて整備。これは1904 年から1905 年にかけてのことで、相対性理論が出る直前のことである。
 慣性質量をめぐる議論に触れておく。これまでの議論は、ニュートン力学電磁気学とをどのように整合させるかという点にあった。しかし、ローレンツ電子論の成功は、電磁気学を出発点にして力学、特に慣性について説明しようという試みにつながる。電荷が存在する周りには電場が存在している。もし、この電荷が運動するならば周囲の電場もそれに伴って変化し、その変化は磁場を生じる。これらの場は電荷自身に作用を及ぼし、運動の変化に対する抵抗、つまり慣性の役割を果たす。この考えを使うと、電子の半径に反比例する抵抗力が導き出される。このような電磁場との相互作用に由来する「慣性」は電磁質量。1901 年カウフマンは運動する電子の質量が増大することを発見したが、この現象もローレンツ収縮によって電子の半径が収縮するという仮説と電磁質量を組み合わせれば説明される。だが、ポアンカレはその後、このような電子モデルは、自分の電荷による反発力によって安定しないことを計算によって示し、問題が残ることを指摘している。相対論の登場によってこの現象が再度注目され、「質量とは何か」が物理学の重要なテーマとなっていく。
<「光速度不変の原理」:論理の転回>
 これまでの流れから、相対論はローレンツポアンカレの成果だと主張できる。だが、この段階での変換式はあくまで数学的な補助手段。また、エーテルに対する絶対運動が存在しても、その影響を打ち消すような機構がある、という説明になっている。これらの議論はマクスウェルの電磁気理論を前提にした「動力学的」検討からなされている。だが、アインシュタインの相対論は電磁気学を前提とせず、「運動学的」な検討からのみローレンツ変換を導いている。そして、これを単なる数学的表現ではなく、時間、空間に関する大きな認識の転換として提示したのがアインシュタインの真骨頂。
 さまざまな実験結果から、「観測者の運動に依存することなく、光速度は同じように観測される」ということが示唆されていた。これを「説明されるべきこと」から「議論の出発点」へと逆転させたのが「光速度不変の原理」。これは説明することを放棄し、それを仮定しただけに見えるのだが、自然の姿をあるがままに捉え、それによって多くのことが説明されるという結果をもたらしたのである。。
 また、相対論はエーテルを使わずに光に関する諸現象を説明することに成功した。その代わりに、宇宙の至るところに存在する「場」にその役割を与えた。それまで電磁場は物質あるいはエーテルの状態として考えられていたが、そのエーテルの存在を捨てるということは、電磁場を担うものを空間そのものとすることである。こうして、物理学は物質と場の織り成す相互作用として描かれていくことになる。
 
 少々長くなったが要約すれば…光や電磁気を伝える媒質として「エーテル」を捉えると、それは多くの矛盾する性質をもつことになる。「エーテル」に対する実験はことごとく失敗。ローレンツエーテルの抱える矛盾を解決するために、ローレンツ変換を発見。そして、アインシュタインは、「光速度不変」を理論の出発点として選ぶ。