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空間と時間:哲学的でない、自然な付き合い方

 空間や時間は哲学の対象だと思われたり、主観的な心理的対象として強調されたり、また文学作品では欠かせない装置として重要な役割を演じてきました。時間、空間は物理的でも数学的だけでもない、謎を含む、世界に欠かせないものとして、私たちを刺激し続けてきました。
 時間や空間に対するコペルニクス的転回と言えばカント。その転回とは、空間と時間を私たちが感覚する対象がもっている客観的な性質としてではなく、したがって経験を通して得られる外在的なものとしてではなく、人間の「感性」がもつ主観的な形式であるという主張です。時間と空間の転回をきっかけに哲学を存在論から認識論へ転回しようとしたのがカント。カントによれば、空間と時間は私たちが知覚、感覚する事物に備わったものではなく、事物や出来事、現象を知覚する主観の感性に備わった能力なのです。カントはそれを「直観の形式」と呼び、空間と時間は人間の感性にアプリオリに備わっていると考えました。彼によれば、人間はそれらの形式に当てはめて対象を直観することになります。

 私たちが見たり、聞いたりする風景や出来事がそれぞれ固有の時間や空間をもっているのではなく、私たちがそれらを見たり聞いたりするときの直観の形式が時間、空間なのだとカントは言うのですが…私たちは時間や空間という形式を通じて風景や出来事を見たり聞いたりするのでしょうか。では、夏の風景、冬の風景の違いは私たちが見る時間形式の違いなのでしょうか。私が感じる夏と冬の違いは風景がもつ違いであり、それを見る私たちの直観の形式の違いではないのではないか…こんな疑問がすぐ出てきます。風景を見て夏を感じる、冬を感じる、広さを感じる、急峻さを感じる等々、私たちは見る風景の時間、空間を感じますが、そこに登場する時間や空間は「何かの時間、何かの空間」であり、個々の時間、空間として感じているのです。私たちは夕焼けの風景を見ながら、陽の沈む瞬間に煌めく最後の光を感じ、遺跡を見ながら時の経過に思いを馳せるのです。

 カント哲学の最大の特徴は、認識の作用にアプリオリとアポステリオリの区別を持ち込み、認識を主観と客観の共同作用と見る点にあるのですが、その認識の出発点である感覚、知覚に対して、アプリオリな形式としての空間と時間を持ち込むのです。カントが空間と時間とを感性の主観的な形式と考えた背景には二つの理由があります。デカルト以来空間と時間とは物自体に関連付けて理解されてきましたが、人間には物自体そのものを把握する能力はなく、人間は物自体に触発された結果として現象をとらえることができるだけとする信念が一つ。もう一つは、空間と時間とを物自体の属性ととらえると、解きがたい矛盾、つまり理性のアンチノミーが生じるからでした。(*私はこの二つの理由はカントの理由でしかなく、誰もがもつ理由ではないと思っています。)
 デカルトの空間は延長が占めている場所そのもののこと。では、物体がなくなればその場所もなくなるのでしょうか。デカルトは物体がなくなっても空間は消えるのではなく、微細な物質(エーテル)によって占められるのだと主張しました。デカルトは真空のかわりにエーテルの存在を仮定したのです。エーテルはその後物理学で再登場することになるのは昨日述べた通りです。そのデカルトの空間論を厳しく批判したのはニュートンニュートンにとって、空間は神が創造したものであり、万物を創造する器として必要でした。ここからニュートンの絶対空間論が出てきます。絶対空間とは、個々の物質とは別にそれ自体として自存している空間であり、物質が取り除かれても消失することはありません。これに反対したのがライプニッツライプニッツが持ち出したのは、物質は神によって作られ、空間はその物質相互の関係を表すための概念に過ぎないという、相対空間の考えです。これら三者の考え方は重大な相違を示しているように見えますが、実はそうではないとカントは言います。どれも、空間を物自体が存在するための条件として考える点では同じと言うのです。カントの転回は、空間を物自体との関連において考えるのではなく、人間の主観的な要素との関連において考えるというものでした。空間と時間は客観的な実在ではなく、対象を認識するための主観的な形式だと考えれば、空間や時間をめぐる哲学上の論争は無くなり、空間や時間をめぐるアンチノミーも意義を失う、そうカントは考えたのです。(*このような解決は科学者ならしない方法で、経験的な解決ではありません。)

 感じる世界を知る世界に変えるための知識の一つが物理学。私は知覚することによって世界を感じ、知り、行動しています。私たちはそれぞれ自らの仕方で世界を感じています。その感じる世界を自然言語と常識を使って捻くりまわし、合理的に表現し説明するのがカントの認識論。時間を直接感じることはなく、時間の経過を起こった出来事や現象を通じて感じているのが普通の私たちの経験です。普通は感じるのではなく、知るのですが…風景を見たり、映画を見たりして、私たちは空間や時間のもつ意味を感じます。その営みは物理学の時間、空間と何ら変わりません。私は昨日、次のように書きました。

 これまでの流れから、相対論はローレンツポアンカレの成果だと主張できる。だが、この段階での変換式はあくまで数学的な補助手段。また、エーテルに対する絶対運動が存在しても、その影響を打ち消すような機構がある、という説明になっている。これらの議論はマクスウェルの電磁気理論を前提にした「動力学的」検討からなされている。だが、アインシュタインの相対論は電磁気学を前提とせず、「運動学的」な検討からのみローレンツ変換を導いている。そして、これを単なる数学的表現ではなく、時間、空間に関する大きな認識の転換として提示したのがアインシュタインの真骨頂。
 さまざまな実験結果から、「観測者の運動に依存することなく、光速度は同じように観測される」ということが示唆されていた。これを「説明されるべきこと」から「議論の出発点」へと逆転させたのが「光速度不変の原理」。これは説明することを放棄し、それを仮定しただけに見えるのだが、自然の姿をあるがままに捉え、それによって多くのことが説明されるという結果をもたらしたのである。。
 また、相対論はエーテルを使わずに光に関する諸現象を説明することに成功した。その代わりに、宇宙の至るところに存在する「場」にその役割を与えた。それまで電磁場は物質あるいはエーテルの状態として考えられていたが、そのエーテルの存在を捨てるということは、電磁場を担うものを空間そのものとすることである。こうして、物理学は物質と場の織り成す相互作用として描かれていくことになる。

 言葉には歴史があり、その中で文法も語彙も変化してきました。世界を適切に表現するには文法だけではなく、知識が不可欠で、その知識を的確に表現するために言葉は新しい語彙や謂い回しを生み出し、変化してきました。時間や空間は言葉ではなく、言葉で表現されるものですが、文法に似ていなくもありません。でも、それは知識状況が変われば、それに応じて変わるものです。「光速度不変の原理」に関わるスリリングな議論はカントのコペルニクス的転回からは出てきませんでしたし、その他の時間、空間に関する知見にも(量子論の一部を除いては)積極的に関与してきたとは言えません。