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風景を閉じ込める:庭園、神の国、浄土(3)

 さて、やっと乱歩の登場。江戸川乱歩は「パノラマ島綺譚」を「黄金の死」からl2年後に発表する。乱歩が谷崎の「黄金の死」を読み、ポーの「アルンハイムの地所」、その続編「ランダーの別荘」との酷似を認めたと思われる1917年から9年も経っている。それは「パノラマ島綺譚」はポーと谷崎の物語が乱歩の中で熟成される期間だったのだろう。「黄金の死」の庭園がボーの庭園とは似て非なるものであったに対し、「パノラマ」の庭園は形態面では共通点を持っている。両方とも庭園の中心部に到達するには舟に乗り高い岸壁の間を奥に進んでいく。行程は途中に池を経てくねくねと曲がりつつ行方も知れず続き、それが突き当たりとなると、さえぎる壁の向こうに新たな空間、すり鉢状の中心部が広がっている。道筋の風景もポーに類似している。だが、この人工の極み、過剰な清浄さ、超自然的な美は、ポーでは「天使のなせる業」であったに対し、乱歩では「悪魔の作為」によるもの。アルンハイムの無人に対し、パノラマ島に溢れる人間はこの両世界の乖離を決定づけている。人が誰もいないのと溢れているのでは、その差は自然と都市以上のものである。さらに、パノラマ島の人間はただの人間ではなく、人魚を演じ、白鳥を装い、さらには人肉の蓮台となり、肉布団となる、エロチックな白い肌に包まれた生暖かい血を秘める「人肉」である。乱歩の世界とポーの世界とはこのように隔絶している。
 主人公人見広介の地上庭園建設の夢を実現可能にしたのは、エリソンや岡村のように巨額の遺産ではなかった。いかにも乱歩らしいトリッキーな設定なのだが、彼は大富豪菰田源三郎と瓜二つで、その急死した男にすり替わるのである。人見はまず自らの死を偽装し、埋葬されたばかりの菰田の死体を他所に移し、菰田として墓から蘇る(乱歩風の怪奇で、なぜか緩んでいる)。菰田の妻であった千代子との関係は人見が克服しなければならないことだが、それが物語を牽引する。菰田の身体的特徴を詳細に知っている彼女と肉体的交渉をもつことは破局につながる。年来抱いてきた大きな理想を捨ててしまうことはできないと千代子の殺害を決意する。それが、探偵北見による真相の暴露、庭園の崩壊をもたらすことになる。
 もちろん、この人見の理想の庭園世界も、岡村のそれのように炸裂する花火の中で透明に輝く肉塊と血潮の光に一瞬照らし出されるだけである。 ポーの死によって浄化された天使たちの清浄無垢の世界と、谷崎の生ける肉体美、乱歩の肉塊と血潮の世界とは大きく隔たっている。だが、夢、理想、 本質を純粋にそのまま実現した世界、つまり「夢の現実化」としての庭園とそれを可能とする「死」は共通している。ポーは隠れた死を前提においている。だから、死は物語には現れず、それが可能とする理想の世界の景色を描くことができた。谷崎と乱歩は物語の最後に死を置き、その死に至るまで世界は地上的な肉体や物に溢れている。したがって、楽園そのものは描かれず、彼方に存在が示されるのみである。だから、ポーが描く世界は谷崎と乱歩の物語のあとにやってくるのである。

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(関山神社宝蔵院の庭園跡)

 現実の庭園史を振り返れば、西欧の庭園は現実のエデンの園であろうとする。したがって、形のない庭園=楽園は存在しない。一方、日本の庭園はそれを通して楽土が観想されるものである。仏教ではその世界が浄土である。これらは前回述べた通りである。脇道にそれるが、旧関山宝蔵院庭園もその一例。関山神社は長野県との県境に近い旧妙高村にある。関山神社の横にかつて宝蔵院と呼ばれた寺院があり、既に建物はないが、庭園がほぼその当時の姿をとどめた状態で残り、最近滝の石組みが復元された。宝蔵院は妙高山信仰の拠点として隆盛した寺院だが、江戸時代になり上野寛永寺の末寺となり、妙高山一帯を支配する領主となった。幕府から領地を認められ、妙高山と関山神社の祭礼を行っていた。宝蔵院の庭園は妙高山の姿を背景とした池泉式庭園。庭園は池を中心とし、地形を利用して高さ5メートルの滝が作られている。御膳清水と呼ばれる冷水が流れ落ちていた。信仰の山であった妙高山を背景としてその姿を庭園中心に取り組み、高い滝石組を対比させている所に庭の特徴があり、国指定の名勝でもある。妙高の風景とそれを閉じ込めた庭園は妙高で生まれ育った人々に共通する風景のミニチュアになっている。

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ブリューゲル穀物の収穫」1565)

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フェルメール「デルフトの眺望」1660頃)

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セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」1904)

 風景と言えばごく自然に脳裏に浮かぶのは「自然の風景」。人が住む風景なら都市の風景ということになるが、風景画が登場し、人と風景が主要な主題になるのは歴史的には16世紀以降とかなり遅い。ポンペイのフレスコ画や中国の山水画は例外である。自然は知られるべき好奇の対象として科学の対象になったが、そこに人や街が加わって生活の風景として知られるだけでなく、さらには享受されるものになっていく。様々に表現される自然や社会、そして人間は楽しまれる対象として認められ、支配階級だけの庭園から市民の公園へと変化していく。それは、貴族社会から市民社会への変化のためでもある。都市の景観としての風景は今では科学の対象になり、その知識は造園や都市計画に生かされるようになっている。
 かくして、「風景を経験する」ことは二つに分かれることになった。一つは至極平凡な科学的な観察という経験であり、他は風景の享受という経験である。つまり、「知る」ことと「享受する(味わう、楽しむ等)」ことの二つ、これが私たちの風景の経験である。
 「何をどのように知るか」が認識論の研究課題。デカルト以来19世紀まで認識論は科学と芸術に対して公平だった。知ることの仕組みは両方に恩恵をもたらすはずだった。だが、科学は観察の方法と手段に格段の進歩を見せ、思弁的に設定された知覚の仕組みに制約されることなく、風景の中の対象を観察することに成功した。風景を享受する方はまだ科学的探究は十分でなく、さらにそこには人の欲求や意志が働く。享受を科学的に知ることはまだ十分でないが、風景を実際に楽しむ芸術、文学は古来それを埋めるほどに様々な作品がつくられてきた。それら作品をつくった人々も、それらを享受する私たちも共に風景を味わい、楽しむ達人であり、享受の詳しい構造など知らなくても、経験内容は十分に享受できるのである。
 風景を所有すること、つまり庭園をもつことは今では公園の共有となっている。享受の民主主義が実現されている。視覚は風景を生み出し、風景を知るだけでなく味わい、楽しむことを私たちに与え、そこから私たちは風景をつくり、風景を利用することになり、風景はいつの間にか生死のための場所と言う意味を与えられるようになった。
 私たちは風景として世界を見ることを学ぶ。風景は私たちがつくるものである。その風景の中で私たちは生き、風景を変えたり、楽しんだり、あるいは非難したりすることによって生に執着するようになる。美景や醜景を判断し、再現し、旅行によって風景を享受し、死後の世界にまで風景を追い求めることになる。遊園地への希求は子供だけに限られない。遊ぶことができる風景は楽しい風景であり、戦場の風景とは好対照をなしている。同じ風景でも好天気の場合と嵐の場合はまるで違っている。
 風景から自然概念が生まれてくる。平坦で冷静な風景は客観的な観察に向いている。一方、天変地異の自然はダイナミックな風景として心に残るが、観察には向いていない。さらに、風景から社会概念が派生する。社会と言うと語弊があるだろう。街、家々、往来、道、橋等々、それらが風景の中で組み合わされ、社会の姿が風景の一部として浮かび上がってくる。風景の安定した構成材料を挙げれば、土地、地面、空、水、樹、山、湖、海等々、いずれも子供の頃の記憶の中に存在し、生まれ故郷の風景の中に必ずや登場するものになっている。当たり前のことだが、その故郷の風景こそ、人が最初に学んだ風景であり、誰の風景も最初に刻まれる風景は生まれ故郷の風景である。人は故郷で学んだ風景の中で自然を学び、社会の一員になり、社会の風景を学び、物理学や生物学を通じて科学的な自然にも開眼することになる。