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花はなぜ咲くのか

 まずは次のような子供でもわかる説明を読んでみて下さい。その後で、この説明が科学と常識や習慣とのモザイクになっていて、決して首尾一貫した説明にはなっていないこと、そしてそれを普通に受け入れている私たちが習慣に流され、気に留めていないことを示してみましょう。さらに、いずれはそれが何をもたらすのかを考えてみたいという訳です。
 最初は注の番号を気にせず、本文だけを最後まで読んでみて下さい。そして、この本文が一応無難な内容になっていることに納得できたなら、次に注の番号に注目し、本文と対応させながら読んでみて下さい。本文に納得した自分と注に納得した自分を比べることができたなら、注文の多い私の意図はある程度実現したと言えます。
(本文)
 花が咲く理由は、風にそよいだり、虫をおびき寄せたりすることによって、花粉を遠くへ運んでもらう必要があったからと考えられています。ダーウィニズムに従って述べれば、風や虫という環境要因をうまく繁殖に利用するような形質を発現する遺伝子は、その集団内でより増殖しやすい傾向にあるからです。(1)花を咲かせる遺伝子群がそうでない遺伝子群より選択的に有利となり、現在花が咲いているという訳です。

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 私たちが見る花に関しては、花が咲くと実が成ります。その実からは芽が出て、次の世代の個体が生まれます。でも、そんな花ばかりではなく、直に咲き出すソメイヨシノのように、花が咲いても種が取れず、次の世代が育つようにはなっていない花もあります。そんな花がなぜ立派に咲き続けるのかというと、最初は突然変異という偶然の結果だったのですが、それが続いたのはそこにソメイヨシノの花を愛でる人がいたからです。たとえ実は成らなくとも、花が美しければ、それだけで株を増やしたり、慎重に交配させたりしてくれる人がいたという環境要因があったからなのです。
 特定のハチに選択的に受粉させるような花を咲かせることで代を重ねて進化してきた植物と、パッと咲いてパッと散る見事な花を年に一度だけ見せることによって、日本人に株分けをさせてきたソメイヨシノとでは、仕組みは大きく違います。でも、実はやっていることは同じことなのです。人間も一つの生物に他ならないとすれば、自然淘汰(natural selection)と人為淘汰(artificial selection)に本質的な差など何もないのです。(2)

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 人の遺伝子の99%以上は共通部分で、残りのわずかな違いが人種の違いや顔かたちの違いになって現れます。生まれつきの個性は遺伝子レベルでは本当に僅かなのです。ですから、自分が直接遺伝子を残しておかなくても、同じ人類が生き残るのに有利な働きを残せば、かなり高い確率で自分と同じ遺伝子は存続できてしまいます。そもそも、自分の子供を残したところで、その子供に本当に残せる自分の遺伝子は立った半分だけなのです。(3)
 さて、「なぜ遺伝子交換を伴う生殖が必要か」という理由の答えが実はここにあるのです。世代交代というのは遺伝子組み合わせ実験の実験場でしかありません。どんな正常な人の子供にも、致死遺伝子のようなまずい組み合わせが生じる可能性がある程度はあるのです。その代わりに、私たちは実際に形質として発現する遺伝子以外にも隠れた遺伝子をたくさんもっていて、その組み合わせの多様性によって、急激な環境変化に対して柔軟に適応できるような遺伝戦略を取れるようになっています。これこそ進化の結果、私たちが獲得した知恵なのです。
 人と類人猿、あるいは人とクジラやイルカなどを比較しても、遺伝子の総体としては、やはりそれほど変わりません。だとすれば、イルカや動物の保護に血道を上げる人の行動もまた、たとえ人類が滅びようとも、哺乳類全体が生き残ればいいと考えることもできます。哺乳類の保護には敏感でも、ゴキブリや原核生物の保護に乗り出す人がほとんど見られないのも頷けるというものです。(4)

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 人の感情とはそこまで単純に説明できるようなものではないでしょうが、とにかく自分の子供を残さなくとも、自分と類似の遺伝子を持った人々の繁栄を支えるために自らの人生にひと花咲かせるというのは、ダーウィンの信奉者の眼から見ても、十分に価値のある生き方ということになります。(5)

(注)
(1)本文の「花が咲く理由は、風にそよいだり、虫をおびき寄せたりすることによって、花粉を遠くへ運んでもらう必要があったからと考えられています。ダーウィニズムに従って述べれば、風や虫という環境要因をうまく繁殖に利用するような形質を発現する遺伝子は、その集団内でより増殖しやすい傾向にあるからです。」の二つの説明文の一方は常識的なもの、もう一方はそれを生物学的な語彙を使って言い換えて、同じことを別の語彙を使って表現したもののように見えます。でも、最初の文は花粉を遠くに運ぶという「目的」のために必要だと言っています。つまり、花は「花粉を遠くに運ぶために」あるのだという訳です。二番目の文は今流行りの遺伝子を使い、しかも確率を背景にした説明になっています。ここには「目的」は登場していません。目的を使った説明と因果過程を使った説明の違いを子供たちにしっかり理解してもらうのは大変なことなのです。常識や習慣は目的を有効利用しているので、ついそれに慣れて、目的を使って自然現象を説明することに無頓着になってしまうのです。
(2)ソメイヨシノと種のとれる花
 遺伝子研究の結果、ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑してできた単一の樹を始源とするクローンです。各地にある樹はすべて人の手で接ぎ木などで増やしたものです。ソメイヨシノを両親とする種子が発芽することはなく、ソメイヨシノ同士の自然交配による子孫はいません。でも、不稔ではなく、結実は見られ、ソメイヨシノ以外のサクラとの間で交配が可能なのですが、これはソメイヨシノとは別の品種になります。
 ソメイヨシノは人為選択によって、種のとれる花は大抵自然選択によって、繁殖しています。確かに二つとも選択なのですがで、本当に同じことなのでしょうか。『種の起源』を書いたダーウィンは、その本の中では二つはアナロジーに過ぎないと考え、まずは人為選択を述べ、同じようなことが自然でも起こっているとして自然選択の原理を述べ、その例を挙げています。「人為」と「自然」の共通点と相違点をどのように捉えるかはとても基本的な事柄で、環境保全や持続可能な政策にとって不可欠のものとなります。中学生や高校生に関心を持ってほしい事柄の代表と言えます。
(3)ここにも常識と科学の混入が見られます。「私の遺伝子」と「あなたの遺伝子」は違うのでしょうか、それとも同じなのでしょうか。科学的には「同じ」です。遺伝子には私やあなたの違いは反映されていません。「誰の遺伝子か」という問いは実に象徴的な問いで、常識や習慣と科学的知識とを組み合わせた表現になっています。既に私たちは「私の心臓、私の脾臓」という謂い回しには慣れていますが、古代日本人は使わない謂い回しです。でも、その古代人でも「私の手、私の足」とは表現したはずです。自分の手足や心臓に愛着を持てる人は当然自分の遺伝子にも愛着を持てるはずです。自分の手足や心臓は自分の遺伝子の組み合わせからできているのですから。でも、私たちの気持ちはいつも理屈にしたがう訳ではなく、自分と他の哺乳類の遺伝子が同じことを受け入れる寛容さはもっていないようです。これは大学生に是非考えてほしい事柄です。
(4)と(5)遺伝子と人の心、感情の話がつながっているように述べられていますが、二つのものはまるでレベルの異なるものだというのがこれまでの常識、習慣です。それら二つをつなげることによって統一的な人間観、生物観を見つけようという動きに対して、伝統的な保守派は強く抵抗しています。宗教や倫理は古い常識や習慣に基づいていますから、科学的な知識とは相容れないことになります。無理に融和させるのではなく、真偽の決着がつく事柄は白黒をはっきりさせるべきなのですが、これは大人にも厄介な問題なのです。

 人は傲慢ですから、何でも自分の立場から考え、説明し、それを応用しようとします。その際にどのような知識や情報を使うかには鈍感で、都合の良いものを無節操に使うことがしばしばあります。知識を使うのが上手い人たちにはそのような傾向が顕著に認められます。文系の人たちの説明(このような分類も文系由来のものです)や歴史的な説明と呼ばれるものの多くは玉石混合で、見事なモザイクになっています。私たちの日常生活についての常識と遺伝子の存続に関する遺伝学的知識とをどのように組み合わせてまとまった説明にするかは一筋縄ではいきません。個人の行動レベルと遺伝子の化学レベルは異なるレベルであり、二つの異なるレベルの因果連関を組み合わせて整合的なストーリーをつくることは通常はできない筈なのです。でも、それを何の支障もないかの如くに実行してみせる人が結構たくさんいるのです。それは二つのレベルの両方を侮辱するものです。それぞれのレベルの文脈をどのように斟酌し、それぞれの情報を一つの文脈にまとめ上げるか、残念ながら今の私たちはその方法を知っていません。それはよく聞くインターフェイスなどといった概念では決して片がつくような問題ではありません。常識は経験に基づきますが、科学的知識も経験に基づいています。いずれも経験なのですが、とても違った経験です。常識の経験は日常生活の経験ですが、経験科学の経験は実験や観察という特殊な経験です。まず、いずれも経験であることで、両者はつながっていますが、しかし、異なる種類の経験だということから、両者は異なる、ということになっています。
 私たちの行動は意図的です。ですから、異なるレベルの異なる知識や情報をその由来や出所を敢えてはっきりさせず、操作できるつもりで書いたり、話したりします。でも、本当のところは自分の意図に合わせて、文脈やレベルの混同をしながら話したり、書いたりしています。そんな混乱の交通整理をするのは私たち一人一人の仕事なのです。