二つの目標

 目標を達成することは人生のあらゆる場面に登場します。自分の能力や現状を無視して目標を設定しても、達成できないばかりか、自信を喪失し、モチベーションを失うことになります。そのため、目標達成についての巧みな知恵は成程と思わせるような箇条書きとして表現されてきました。
(1)少しがんばれば達成できる目標を立てる。
(2)目標達成に期限を設ける。
(3)最初の目標にこだわらず、やめることが大切。
 人生の目標は誰もが大切と思うためか、常識や習慣の格好の対象となり、上記のような処世訓やrule of thumbとして伝えられてきました。
 「「環境保全」という目標はパラドクスを含んでいる」と言うと、また哲学の人騒がせな虚言かと勘ぐられるのが落ちなのですが、実は生者必滅が成り立つどのような事柄にも共通のことに過ぎないのです。医療の理想は病気による死者の撲滅ですが、一方で人は必ず死ぬ訳ですから、医療活動は達成できない理想を掲げるというパラドクスを内に秘めたままの活動なのです。いわば、未完の崇高な理想ということです。環境保全活動もこの医療活動に似ています。環境は変化し、現状を維持・保全することは不可能であるにも関わらず、私たちは自らが生存する環境を保全しようとします。それゆえ、かなわぬ夢を求めるという点で、二つは同じパラドクスを内蔵した活動なのです。死ぬこと、変わることが運命であるにもかかわらず、その運命自体を否定しようとするかのような活動が二つの共通点になっています。実のところ、このような例は私たちの周りに溢れています。人のつくったものはいつか壊れるが、壊れない自動車や飛行機をつくりたいと夢見るのが技術者です。その夢は矛盾を孕んでいますが、それでもその夢を追い求めるのが人なのです。
 環境保全活動、医療活動の目標と人生の目標とについての私たちの態度はどうして異なるのでしょうか。二枚舌、二重基準の典型のように見える目標の違いはどうして生まれるのでしょうか。その解答の一つは、大きな目標と小さな目標、あるいは究極の目標と眼前の目標の違いにあるのではないでしょうか。つまり、普遍的で不変的な目標、局所的で暫定的な目標の違いがあって、処世訓やrule of thumbは取り換えることが可能な目標、環境保全や医療は夢の目標という仕分けがなされているのです。小さな目標の柔軟な組み合わせと変更、試行錯誤による目標の作り直しが最後に目指すのが最終目標で、その究極の目標はぶれずに安定したものと考えると、少々心は落ち着くのではないでしょうか。
 でも、果たして究極の目標があるかどうか、目標とはどのような存在なのか、といったこれまた少々哲学的な問題は残ります。目標や目的は進化の産物でしかなく、それゆえ究極の目的や目標はないというのが科学的に無難な解答ということになっていますが、私たち人間は自らの目標や社会の目的について、科学を越えて議論し、決定してきたのも事実です。