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深刻な不安あるいは死に至る不安

 昨日、安全と安心の話をしたが、安心も不安も曖昧でぼんやりした未来に密接に関わっている。安全と危険がきちんと予測できる未来なら、未来への不安はなくなり、安心に満たされるだろうが、予測できないとなると不安が高まるだけで、安心は得られないだろう。安心や不安という心的状態は本来曖昧でぼんやりしている。不安は怒りや悲しみのような感情でもないし、痛みや苦しみとも違っている。不安が強くなると恐怖や苦痛に変わっていくのが普通のこと。そのためか、強度の不安は神経症と呼ばれてきた。不安を主な症状とする神経症は不安神経症。不安は漠然とした恐れの感情だが、いつまでも続くのが病的な不安。不安神経症では、この病的な不安がさまざまな身体症状を伴って現れることになる。「神経症」は既に正式な診断名としては使われなくなっており、現在では「パニック障害」とか「全般性不安障害」と呼ばれている。
 さて、自殺の動機として「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と記したのは芥川龍之介(1892)。彼は本当にぼんやりした不安から自殺したのだろうか。
 芥川は東京帝大在学中に菊池寛らと同人誌、第三次・第四次『新思潮』を創刊。そこに発表した「鼻」を漱石が激賞。1927年7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺。その経緯を垣間見てみよう。
 芥川龍之介は明治25年、新原敏三の長男として東京に生まれた。生後間もなく、母フクが精神に異常をきたし、龍之介はフクの兄芥川道章に預けられ、独身だったフクの姉フキが龍之介の面倒をみた。龍之介が11歳の時に実母は世を去る。芥川は小学校の時から成績優秀で、一高へ無試験で入学、東京帝国大学に進む。

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 23歳の夏、才色兼備の吉田弥生と交際を始める。青山女学院を卒業した弥生は、文学を好み、英語も堪能。英文科在籍の龍之介と相性はぴったり。ところが弥生に、別の男性から縁談が舞い込み、龍之介は失恋。悲しみを紛らせようと、遊郭に足を踏み入れ、それが悪癖となっていく。失恋直後に書いた『仙人』で、「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか」と問い、これが最後まで続く。
 そんな芥川の人生を大きく変えたのは、夏目漱石との出会い。漱石が弟子と面会する「木曜会」に参加し、漱石の学識と人格に魅了された。雑誌『新思潮』の創刊号で、漱石の注目を引いたのは芥川の『鼻』。漱石から激賞され、芥川が文壇デビューしたのは大学卒業間近の25歳の時だった。卒業後、芥川は海軍機関学校の英語教授になる。漱石の訃報を聞いたのは、その直後で、出会いから1年しかたっていない。1918年の秋、懇意にしていた『三田文学』の同人小島政二郎の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが実現しなかった。1919年龍之介は、塚本文と結婚。
 1921年芥川は毎日新聞の社員となり、筆一本の生活に入る。だが、作品はマンネリ化し、危機を覚える。長編小説への意欲も、空回りして成功しない。この頃の芥川は、社交的で、既婚者である秀しげ子と出会う。しげ子は、女性の少なかった文壇で華やかな存在で、二人は密会を重ねることになる。
 創作の苦しみ、女性問題に加え、さらに龍之介を悩ませたのは、長男の誕生だった。芥川家にいた養父母とフキの3人は、孫を溺愛し、子育てに過剰に干渉した。世代差から来る方針の違いはいかんともし難く、彼は家庭でも人間関係に疲れていた。
 30歳の時、海外特派で中国に赴くが、帰国後は健康がすぐれず、特に下痢に悩まされ、神経衰弱も発症。以後、持病との闘いが続く。34歳の冬、芥川が、当時の作家の代表作を集めた、『近代日本文芸読本』が刊行される。100人以上の作家に自ら手紙を書き、収録の承諾を得るのは、並大抵の作業ではない。だが、1人でも多くの作家を載せようと苦心したのに、評価されるどころか、当の作家たちから悪評を立てられる。誠実が仇で報われ、芥川は深く傷ついた。この事件で神経衰弱が進み、睡眠薬を愛用し、虜となっていく。
 芥川最後の年となった昭和2年1月4日、龍之介の姉ヒサの家でボヤ騒ぎがあり、ヒサの夫西川豊は火災保険を狙った放火の嫌疑をかけられ、6日に鉄道自殺する。事件の処理に追われた芥川には、既に8人の扶養家族がいた。妻と3人の子供、養父母にフキ、そしてヒサの前夫の子。そこに西川の遺族が加わり、12人となった。さらに、西川が抱えていた高利の借金が重くのしかかる。そんな中、病身の芥川は猛烈な勢いで筆を走らせた。そして、36年の生涯を薬物自殺で閉じる。人生は、この作家には重荷だった。それは、例えば、

「人生は地獄よりも地獄的である」(侏儒の言葉

と表現されている。
 ここで、芥川の不安について、彼の作品から私流に推測してみよう。1916年『聊斎志異』の中の「酒虫」をもとに同名の短編小説を書いている。
 炎天下、太った男、劉(りゅう)は手足を縛られて横になっている。異国から来た坊さんが、劉に、どれだけ酒を飲んでも酔わないのは「酒虫」が体内にいるからだ、駆除しなくては、と診断を下す。そして、その治療法は、日に灼かれながら、動かないように手足を縛って裸で横になるというもの。暑さの中で、虫が参るか、人間が参るか、ということ。すぐ近くに素焼きの瓶があり、中に酒が入っている。酒の匂いでその酒虫を誘い出そうという魂胆なのだが、喉が渇いた劉も酒の匂いで苦しさを増すばかり。すると、劉は塊が少しづゝ胸から喉へ這ひ上つて来るのを感じた。とにかく柔い物が食道を上へせり上つて来るのである。そして、最後にそれが、喉仏の下を、無理にすりぬけたと思うと、鰌(どぜう)か何かのように勢よく外へ飛び出した。こうして、「酒虫」を取りだすことに成功。
 それからというもの、劉は酒を一滴も飲めなくなる。劉の健康は次第に衰え、痩せ、さらには財産も失ってしまう。「酒虫」を体内から取りだした結果、劉は何もかも失って死んでしまう。芥川版では虫の正体ではなく、どうして劉が何もかも失うに至ったかが考察される。
 第一の答。酒虫は劉の福であり、病ではない。暗愚の蛮僧に遇つたために、この天与の福を失うことになった。
 第二の答。酒虫は劉の病であり、福ではない。なぜなら、尋常でない大酒のみの酒虫を除かなかつたなら、劉は直に死んだに相違ない。
 第三の答。酒虫は、劉の病でもなく、福でもない。劉の一生から酒を除けば、後には何も残らない。だから、劉が酒虫を取り去つたのは自らを殺したのも同然である。つまり、酒が飲めなくなつた日から、劉は劉ではなくなった。
 恣意的な解答分類なのだが、芥川が真の理由と考えているのは三番目。つまり、生来持っている資質を捨てると結局は「何も残らない」ということ。では、芥川はこの「酒虫」をいったい何のメタファーとして使っていたのか。酒虫を「不安」のメタファーと受け取ることはできないだろうか。芥川の不安は、それを取り除くなら、芥川ではなくなってしまうが、その不安がそのままでは芥川はそれに耐え切れない。 
 芥川は評論「文芸的な、余りに文芸的な」のなかで、筋のない小説について書いている。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。「点鬼簿」や「蜃気楼」などを読んでいると「最も詩に近い小説」というのもうなずける。「点鬼簿」には「不安」は出てこない。たとえ書き手である芥川の胸の底には不安が沈殿していたとしても、その上澄みの透明な水を掬ったように、この作品に描かれる思い出には明るい光が当たっている。芥川は最後に芭蕉の門人のひとり、内藤丈草の句を引用して、この小文を終わる。
かげろふや塚より外に住むばかり
(勝手に解釈すれば、「墓の外にただ住んでいる、それだけの自分である」)
丈草は「枯野抄」にも出てくる芭蕉の門人のひとり。「枯野抄」では臨終に立ち会った門人たちの最後に登場して、漱石の臨終に際して感じた自分の思いを重ねあわせながら「丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。」と言わせている。このときの丈草=芥川の意識の中では、外と内の境界は、かげろうのようにかぎりなくはかないものだったのだろう。
こんながあったのだ。
 芥川は「死」による解放(丈草の静謐な一瞬)を終始ひそかに願っており、それは心身の衰弱が「生活的宦官」としての拘束や責任感を越えるようになったとき、明瞭な願望として表面化したのである。さらに、自殺する前の芥川は、子どもが、「お化けだ」と怯えるまでに衰えていた。見るも無惨に衰弱していた。芥川の悪所通いについては、作家仲間達による証言がある。中国に渡って同じようなことを繰り返した芥川が、そこで不運にも病魔に犯されたとしても不思議はない。