不安、絶望:人を利するのか、害するのか

 豊洲移転の安心、安全の話をきっかけに、芥川やキルケゴールまで持ち出して、不安や絶望について大騒ぎをしてきた。大山鳴動したように見えて、実は何もなしというのでは恥ずかしい限りで、法螺吹き哲学の謗りを免れない。そこで、これまでの議論をまとめながら、結局人は不安を恐れると同時に、それを求めるものであり、この不安のもつ両義的な役割にこそ人の本性があるのだということを述べてみたい。
 この世界における個人の地位、権利、義務が注目され、引き立てられるようになると、自らの欲求をもとに自ら行為する機会が格段に増え、それに応じて実証的な知識や情報、観察、予測といった事柄が重要視され、盛んに使われるようになる。未来を予測することが十分できない場合、私たちは不安になる。その不安が極度に増大すれば、人は苦しくなり、絶望し、そこから逃げ出したくなる。そのような世界で、キルケゴールも芥川も、不安を感じ、絶望し、苦しむことになったのだった。これまでの議論では、次のような言明が登場した。

安心なら、安全である
危険なら、不安である

不安から、絶望に至る
絶望から、死に至る

 未来が確実に予測できるような世界、それは古典力学的な決定論が成り立つ世界である。(ニュートン革命によって、そのような世界像が理想とされた時代を経て、20世紀以降量子力学的な非決定論的世界像が今では受け入れられている。)古典力学が描く世界では人がいない物理世界が想定されているが、もしそこに他の物体と同じように人がいたとするなら、その人体に自由意志はない。すべての現象は力学的に決定されているから、人体の行動は物体の運動と同じように運動方程式によって記述されており、正確に予測できることになっている。こんな仮定を信じる人は今では皆無なのだが、仮にそうだとしてみよう。すると、人に不安はないことにある。ぼんやりと曖昧な未来、不安を引き起こす原因となる不明の未来はなく、すべてが正確に予測できる未来であるなら、不安に苛まれる必要はなくなる。私たちの不安は、未来についてよくわからない、不明であることから生まれてくる。
 私たちは自らが人体だけではないと信じているから、これまでの話は誤りだということになるのだが、もう少しその誤り話を続けてみよう。未来がすべて既知であるなら、未来に新しいものは何も見つからないことになるから、私たちの未来に対する心理状態はどのようになるのだろうか。その前に述べておきたいことがある。多くの人が信じ込む宗教はこの点について実に巧みである。宗教は未来を一括して予測するのではなく、神の気紛れで予見するだけ。神は時々予見してみせ、奇跡を起こして見せることによって私たちを惹きつける。それは不完全な予測に過ぎないのだが、予測することによってではなく、「心配しなくてよい、私を信頼し、信仰をもてばそれでよい、私の力を信じよ」という仕方で私たちの不安を解消する。
 さて、話を戻し、未来が科学的に既知なら、この世界は実に退屈な世界に変わってしまう。退屈であるだけでなく、希望の喪失でもある。人の心は不確定で、わからない世界に惹かれる。確定していて、既知のものだけの世界には誰も関心を持たなくなる。つまり、科学的な知識は世界を退屈なものに変えるのである。それだけなら大した問題ではないと片付けることができるのだが、私たちは世界に対する関心を失い、夢や希望を持って生きることができなくなるだろう。これこそ深刻な心理的問題を引き起こす。
 確実な知識は夢や希望の喪失をもたらし、「未知の世界を知る」という人の本性が抹殺される世界が創出されることになる。退屈だけならよいのだが、希望の喪失は生きる屍の温床となるだろう。だから、人は古典力学的な世界観の例外として扱われ、人がもつ問題は科学の領域からまずは除外されたのだった。(これは正に人の知恵だった。)だが、科学的な活動は限界知らずで、いつの間にか人の領域に侵入し、今や人も科学の当たり前の対象として研究されている。そうなればなるほど、人がもつ自由意志と確定的な知識の間の関係が目につくようになってきている。
 19世紀中葉以来、偶然的な生物の歴史が進化論として研究され、その知見が蓄積され続けてきた。今では相当な領域について生物の進化史が明らかになりつつある。進化をつぶさに調べ、その経路を推測するなら、力学的な決定論的過程とは似ても似つかないことがわかるだろう。突然変異と試行錯誤、その蓄積と選択の結果が今の生き物であり、文字通り(原因が特定できない)突然の変化と試行錯誤の結果を古典力学的に予め予測することなど不可能である。(そのため、集団の進化を扱う集団遺伝学は確率・統計の手法と知識から成り立っている。)
 偶然的な進化の結果を根本的に含む私たちの生活は、したがって、予測できないものを肝心な点で含む進化の賜物である。つまり、私たちとその生活は予測できないものを不可避的に含み、その事実が私たちの不安や絶望を生み出す主要な要因になっているのである。進化は不安を含意するのである。こうして、「古典力学的な世界観=決定論的世界観」と「突然変異と試行錯誤からなる進化論的な世界観=蓋然論的世界観」は決定的に異なり、いずれを信じるかによって、不安の存在の有無は変わってくることになる。
 古典力学的な世界ではすべてが確定していて、過去、現在、未来の区別は基本的にないことになる。過去を悔やみ、未来を夢見ることはなく、私たちはいつも(神や仏のような)悟りの境地から世界を眺め、対処できることになる。それに対して、進化論的世界では不安が常に存在する。私たちも進化論的世界に生きているから、不安や絶望は私たちの運命なのである。未来が不定で未知であることが自由意志を有意義な存在にし、自由意志は不満や怒りの母となっている。適度な不安が安心を育て、夢をもたせることは、駆動力としての不安の意義を見事に示している。
 このように見てくると、不安や絶望についての新たな見方が見えてくるのではないか。それが「不安と絶望の心理学の新たな展望」とも呼べるような見方である。それは、不安が人の心を活性化し、不安の克服への活動が人の心、社会の健全化に寄与するという観点からの臨床心理学である。不安がどのように人に生きる力を与えるかを実証的に解明することが求められている。
 これまでの心理学での不安、絶望は心の健全な活動に対する悪、否定的にだけ働くものとして捉えられ、精神的な疾患の原因であると捉えられてきた。だが、不安や絶望こそ私たちに希望を与え、新しいものを追求する原動力となるものである。つまり、不安や絶望は二面性をもち、時には私たちに微笑み、時には私たちを苦しめるのである。
 不安は発明の母なのである。不安や絶望は忌むべきもの、乗り越えねばならぬものといった画一的な理解が近代の証であるかのように受け取られてきた。このような間違いは速やかに正し、不安こそ人が人たることを証明する、人がもたねばならない必須のものなのである。
 不安や絶望のの科学、心理学を持続的に推し進め、不安や絶望についての哲学や宗教には冷静に見つめ直すことが必要で、哲学や宗教の不安対策はまずは忘れることが必要なのではないだろうか。