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Nの授業体験

 どの大学でも入学式が行われ、新学期がスタートしようとしている。これは大袈裟に言えば、Nの教育論なのだろうが、私がNに聞いた話である。Nが誰かの詮索より、Nがどんな影響を学生たちに残したのか、それが私の気懸りで、知りたいことである。
 Nは教員資格を持っていなかった。それでも大学の教師ができた(正確には、教員免許などなくても大学教師になれる)。そんなNがまともな教育論をぶつことなどないのだが、授業についての体験だけは長く、豊富。そこで、Nに授業の体験について語らすとどうなるのだろうか。
 Nにとって一番楽な授業となれば、何といっても大学院の博士課程。院生の自由意志を尊重し、それを遺憾なく発揮させればいいだけである。博士論文の指導は授業ではないが、将来の就職のためにはそれなりに大切なこと。修士の1年生は注意が必要で、研究に向くかどうかの見極めをしなければならない。学部の3,4年生は大人の社会に慣れだし、教師の顔色を見るのが上手くなり、教師の心を読もうとする学生は少なくなる。そんな3,4年生よりずっと怖いのは新入生。特に、夏休みまでの間の新入生は怖い。感覚が鋭く、教師の知力や気力を直観する能力を持つ学生が相当いる。自らの力を見抜かれるのは教師にとっては実に怖いこと。
 こんな風に見てくると、高校生や中学生の中には教師の本性を見抜く敏感でクレバーな生徒がいるというのがNの口癖で、成程と思われる。確かに、数学や物理学なら教師のセンスはすぐわかるのである。小学生となると、教師は自分の親に似た存在で、その能力をうんぬんすることなど考えもしない。
 教師の実力を見極める能力をもつ20歳前後の学生が実力ある教師に出会い、マッチングがうまく行くと、後継者が確保されることになる。そして、それは教師冥利に尽きるということになる。研究や教育の持続性はそのマッチングが支えることになるのである。このNの意見は昭和の意見なのだが、私には今でもこうあってほしい気がする。
 Nの体験的な話を続けよう。教師にとって面白い授業はゼミでも少人数での白熱した議論でもない。150名ほどの様々な学部の学生が受講する般教(専門課程の前の教養課程のこと)の授業である。Power Pointは項目程度がよくて、講義ノートは授業で話すことができる3倍ほど渡しておき、授業で話さなかったことは自分で読んでおくよう言っておき、講義ノートの一部だけを丁寧に説明する。学生の反応を見ながら、その断片部分を理解させる。その経験を使って自分で残りを自習せよという訳である。寄席で落語家と観客がシンクロするような時間を教室でも実現すれば、知識の伝達が上手くできたということだ、それを体験させたいとNは強調する。
 Nによれば、偏差値は意外にもとても信頼できる値で、色んな学部の学生が受講していると、偏差値はレポートの評価と強い相関があることがわかる。言わずもがなのことだが、推薦で入学した学生はとてもよくできる。付属の高校からの入学者はかつてはできないと言われていたのだが、最近はできる学生が増えてきた。大学でスイッチが入り、伸びるのは付属校の卒業生で、一般入試の入学者をあっという間に凌駕する。
 さて、このようなNの授業体験は異常なのか、はたまた、いたって尋常なのか。Nの体験的な主張に合点する人はどのくらいいるだろうか。私は意外に多いのではないかと思っている。