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観念:ヒュームの議論から

 1年以上前になるが、ヒュームの帰納法(Induction)について述べたときの前文に次のようなことを書いたのだが、気になる内容なので再考してみたい。以前の叙述が簡単過ぎたので、原文の一部を少々補足して、(内容を変えない程度に)書き直してある。そこから見えてくるのは、「観念を忘れ、その呪縛から解放されて、真の経験主義を見つけ直そう」というメッセージである。

 私たちは自分が直接観察しないことについても多くのことを知っている。直接見るには小さ過ぎる、遠くにあり過ぎる、隠れている、昔に起こったことで今は既にない、まだ起こっていないので見ることができない、といった様々な理由から観察できない場合、私たちはそれら観察できない事柄をどのように知るのだろうか。どんな四角形にも4つの辺がある、2個のリンゴと3個のミカンの和は今年だけではなく、来年も5であると容易に信じることができる。どうして信じるかといえば、四角形の辺の和4についてもリンゴとミカンの和5についても、そうでない場合を想像することができない、というのが信じる理由になっている。ヒュームによれば、観念の間の関係と事実の間の関係とは次のように異なっており、四角形の辺の和やリンゴとミカンの和は観念の間の関係を表現した具体例なのである。

Sが観念の関係を表現する  iff  Sの否定が理解できない、あるいは矛盾する

Sが事実を表現する iff  Sとその否定の両方が理解可能である、あるいは矛盾していない
(*iffはif and only ifの省略形)

 「私は猫を二匹飼っている」は真であったとしても、私たちはその否定、あるいはそれが偽だと想像することができる。だから、「私は猫を二匹飼っている」は事実を表現しているのである。私たちは知覚と記憶を活用することによって観察事実を知ることができる。私たちはどのように観察されない事実に関する意見をつくるのだろうか。それらもやはり経験から得られる。性質のどんな組み合わせも論理上は可能であるが、どの組み合わせが事実として実現できるかは経験に頼らなければならない。

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 さて、ヒュームの上の二つの分類は次のように考えるとわかりやすいのではないか。観念の関係を表現するSをトートロジーだと割り切って考えると、とても理解しやすいのではないか。だが、そのSは上記の四角形の辺の和やリンゴとミカンの和でも成り立つ。そして、数学の言明は文字通りのトートロジーではない。また、経験的な事実を表現するSは無矛盾(consistent)である。つまり、Sもその否定も共に経験的には可能である。だから、Sが通常の経験的言明であれば成り立っている。
 こうして、上の文章がヒュームの説明の骨子なのだが、わかったようでありながら、多くの疑問が出てくる内容になっている。例えば、Sが科学的に確証された真なる言明の場合、その否定は本当に理解可能なのだろうか。四角い太陽、三角の月が理解可能だとすれば、どのような意味でなのだろうか。
 観念(idea)と言えば、誰もが想起するのがプラトンイデア。今風に言えば、イデアは理想化された概念的な実在であり、その典型例は図形や数、さらに、真、善、美といった極めて抽象的なものである。ヒュームの時代になると、形式論理学での名辞(term)の論理的な指示対象は概念だが、心理的な指示対象が観念という連合心理学(心的要素の結合、観念の連合によって心のはたらきを説明しようとする心理学上の立場)が支配していた。このような常識的な「観念」に基づく歴史は終わり、20世紀以降は言語や認知の研究の中で論理的、科学的に扱われるようになっていく。
 観念としてしか存在しないという、観念だけの存在は、この物理世界には存在せず、お化けのような心理的存在であったり、数や図形といった数学的存在であったり、プラトンイデアであったりする。いずれであれ、それら存在は観念であって、不変のものである。これとは対照的に心理的な感覚や印象は経験でき、変化する。ここに問題の元凶が見えてくる。その問題とは、「不変の観念」はそもそも健全な概念なのだろうか、という素朴な疑問である。
 プラトニックな数や図形は観念であり、それら観念は不変で、観念の間の関係は妥当な言明として表現される、つまりトートロジーである、それゆえ、経験的な事実を表現したSとは異なる、これがヒュームの主張だったことを思い出してほしい。今の私たちにはこのヒュームの主張は端的に誤りなのである。
 観念は典型的な常識概念(folk concept)の一つ。プラトンもヒュームもその常識を信じ、観念を基本的概念として採用したのである。そして、その結果、観念は物理的にではない仕方で存在し、しかも不変だということになった。「不変の観念が存在する」という言明は常識的な言明として君臨し続けてきた。だが、他の常識と同様に誤った言明なのである。