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カントの第一アンチノミー

(私はカント哲学については素人同然ですが、アンチノミーの議論は妙に気になっていて、思考実験としてはおかしいのではないかと思ってきました。Facebookの友人がコメントをくれましたので、コメントへの応答も兼ねて、私がおかしいと思う理由を述べてみます。)

 形式論理学では、二つの項からなる基本命題には次の四種類があります。それらは「すべてのABである」(全称肯定A)、「あるABである」(特称肯定I)、「すべてのABでない」(全称否定E)、「あるABでない」(特称否定O)からなり、それら命題の間に成り立つ対当関係が4つあります。それらは次の通りです。
(1)「矛盾対当」は、A-OおよびE-Iの間の関係で、いずれか一方の命題が真なら他方は必ず偽であり、かつ一方が偽なら他方は必ず真である。
(2)「反対対当」は、A-E間の関係であって、一方が真なら他方は必ず偽であるが、一方が偽であるからといって他方が真であるとは限らない。
(3)「小反対対当」はI-O間の関係。
(4)「大小対当」はA-IおよびE-O間の関係。
 全称肯定の否定が特称否定、全称否定の否定が特称肯定で、以後のカントの議論で使われるのは(1)と(2)です。この知識を下敷きにしてカントの第一アンチノミーを考えてみましょう。まずは、彼の議論を私が理解する限りでわかりやすく述べ直してみます。その次に、私の意見を述べることにします(途中でも、カッコの中に私の意見を挿入してありますが、最初は無視して構いません)。

テーゼ:「世界は時間的に始まりをもち、また空間的にも限界を有する。」
アンチテーゼ:「世界は時間的な始まりをもたず、また空間的にも限界をもたない、 すなわち世界は時間的にも空間的にも無限である。」

テーゼ(定立)は、「世界は有限である」と主張し、アンチテーゼ(反定立)は 「世界が無限である」ことを主張します。(最初からテーゼとアンチテーゼの論理的な関係は曖昧で、テーゼの否定がアンチテーゼかどうか判別しにくいのですが、議論はそれを前提に始まります。)「世界は有限である」というテーゼの証明は、「世界は時間的な始まりをもたないと仮定しよう」から始まり、「世界は無限である」というアンチテーゼの証明の始まりは、それとは反対に「世界は始まりをもつと仮定しよう」となっています。つまり、それぞれの主張の反対の立場をまず仮定することから始め、そして次に、それぞれの反対の主張を推し進めると不可能なことが起こることを示し、この反対の主張が偽であることを証明する、という手順をとっています。つまり、対立する反対の立場が矛盾に陥ることを示すことによって、自らの主張を正当化するという論証の仕方をしているのです。(テーゼとアンチテーゼは互いの否定になっていて、帰謬法でそれぞれの主張が真であることを論証する形になっています。議論のための議論としか思えないような、とても不自然な論証なのは確かです。「有限」、「無限」の定義もありません。)
 でも、テーゼとアンチテーゼが共に同じ形式で自らの主張を証明するのであれば、はたしてどちらが正しいのでしょうか。これがカントの課題でした。ところで、対立する反対の立場が矛盾に陥ることを示すことによって、自らの主張を正当化するという証明方法は帰謬法。カントは「帰謬的(apagogisch)証明」、「間接的証明」と呼び、「直示的(ostensiv)証明」、「直接的証明」と対置させています。カントによれば、帰謬的証明は対立する二つの命題の関係が次のような条件のもとにあってのみ有効です。「だがこの後者の〔帰謬的〕証明が妥当性をもつべきであるならば、両命題は矛盾的に(contradictorisch)、ないしは正反対に(diametraliter)対立していなければならない。なぜなら、単に反対に(conträr)対立している二つの命題(反対対立:contrairie opposita)は両者とも偽でありうるからである。」つまり、帰謬的証明が有効であるためには、対立する二つの命題が真に矛盾するものでなければならず、単に反対なだけではこの証明は効力を発しないのです。この「矛盾的」に対立することと、単に「反対に」対立することとはどのように違うのでしょうか。カントの説明によれば、「矛盾対立(contradictoire opposita)」は、「対立に必要なことより多くも少なくも含んではいない」。ですから、どこをとっても互いに対立する関係にあります。これに対し、単に「反対対立」は、「そのうちの一方は全称的に肯定し、他方は全称的に否定する」対立であり、互いに「一方が他方より多くのことを言明している」。したがって、一方が他方を否定する言明のほかに余剰があり、この「余剰分のうちには偽が存しうる」から、両方の判断とも偽であり得るのです。要するに、対立する二つの立場が真に矛盾しているならば、相手を否定することによって自らの正当性を証明できるのですが、反対対立に過ぎない場合は、このような帰謬的、間接的証明は妥当でないということです。(ここまでの長い説明はとても曖昧で、端的に「矛盾対当」と「反対対当」の論理的な違いだと言えばよいだけのことです。)
 では、第一アンチノミーの場合はどうでしょうか。第一アンチノミーの帰謬的証明は成立しているように思われますが、カントは両者とも偽であると結論します。というのも、テーゼ「世界は時間的・空間的に有限である」とアンチテーゼ「世界は時間的・空間的に無限である」として、時間的性質と空間的性質 について問題にされていますが、批判哲学の仕事による成果として得られたところによると、時間的性質も空間的性質も、主語「世界」それ自体の性質ではなく、 単にわれわれ主観の感性的表象にすぎないのであり、したがって、一つの客観的対象としての「世界」そのもののうちに二つの矛盾的性質が居合わせているわけではないからです。時間的な始まりをもつか否かということや、空間的な限界があるか否かということは、「世界」それ自体に内在する性質ではなく、単に私たちの主観的形式の表象にすぎないのです。それゆえカントは次のように述べています。「しかしこの帰謬的証明方法は、われわれの諸表象の主観的なものを客観的なものに、すなわち対象においてあるものの認識に、すり替える ....ことが不可能な諸学問においてのみ認められうるのである。」
(これはとてもアンフェア―です。カントは自分でテーゼ、アンチテーゼという構図で議論を始めながら、その構図自体がおかしいのだと主張するのです。アガサ・クリスティによく似ています。小説なら許せても、哲学では到底許せないことです。詳しくは後述参照。)
 数学ではそのような「すり替え」は不可能ですが、第一アンチノミーにおいてはそのすり替えが行われたのです。時間的・空間的性質という「われわれの諸表象の主観的なもの」が誤って客観的なものと見なされた結果、「世界」という主語概念に内在すると考えられた対立する二つの性質が、矛盾対立する関係にあると誤って見なされたのです。この場合は「両者とも偽でありうるのであって、一方の命題の偽であることから他方の命題の真は推論されない」。したがって、第一アンチノミーで採用された帰謬的・間接的証明方法は無効なのです。こうして、主観的なものと客観的なものとのすり替えによって、一見したところ矛盾対立の関係にある二つの立場が仮象の矛盾を生じさせているだけであり、実際には両者は真の矛盾をなしていないのです。こうして、アンチノミーは否定されるのです。

 ここまで見てくると、カントは相当老獪な書き手で、そのシナリオは巧みに計算されています。そのためか、カントのアンチノミーの論述を読んで私が想い起してしまうのは『アクロイド殺し』(The Murder of Roger Ackroyd)。これはアガサ・クリスティが1926年に発表した推理小説で、エルキュール・ポアロ・シリーズの3作目。ポアロの隣人により書かれた手記となっていますが、実はその隣人自身が犯人だったのです。そのため、「語り手が犯人である」というトリックが読者に対してフェアかどうかの論争を引き起こしました。このトリックがフェア・プレイでないとする側の代表は、ヴァン・ダイン。一方、フェア・プレイであるとする論者の代表は、ドロシー・L・セイヤーズ。意見が分かれていますが、私にはアンフェアーに思えたのです。というのも、私自身がすっかり騙された読者だったのですから。
 さて、アンチノミーについてカントがフェアに叙述しているかというと、疑問をもたざるを得ないのです。テーゼとアンチテーゼはどのような論理的関係になっているでしょうか。テーゼの否定がアンチテーゼ、アンチテーゼの否定がテーゼです。ですから、テーゼとアンチテーゼはそもそも矛盾対当の関係にあるのです。そこから帰謬法を使った議論をカントは行うのですが、その議論が実は誤っていて、本当は反対対当だというのです。ならば、出発点のテーゼとアンチテーゼとは何だったのでしょうか。さらに、カントは、私たちが「世界が無限か有限か」という問いを勝手に世界の実在的な性質についてのものだと思ってしまい、矛盾対当だと誤って思い込んでしまったのが正しくないのだと認識レベルの話にスライドさせてしまいます。ならば、テーゼやアンチテーゼという区別もまやかしだったのだということになってしまいます。区別がまやかしなら、反対対当にある二つの命題、つまりテーゼとアンチテーゼは具体的にどのような命題なのか、示してほしいのですが、それはありません。これはシナリオとしては片手落ちで、いただけません。
 フェアーでない叙述になっている以上に解せないことがあります。とても基本的なことなのですが、出発点のテーゼとアンチテーゼの命題が論理的にどのような形なのか不明なのです。全称なのか特称なのかさえ不明ですし、「無限」、「有限」はどのように表現できるのか説明がありません。現在では「無限」の定義をまずして、それを使って、無限を表現した命題の否定形として「有限」を定義します。例えば、0を含み、nが含まれれば、n+1も含まれるような集合として無限集合を定義し、その否定として有限集合を表現することができます。矛盾対当なのか反対対当なのか判断するには二つの命題がどのように表現できるかに全面的に依存しています。そして、それら命題の中には「無限」、「有限」という概念が含まれているのです。このような説明が一切なく、存在から認識への不思議な移行がなされ、存在の問題ではなく認識の問題なのだという題目になる訳です。これも全くアンフェアーです。
 このような理由から、カントのアンチノミーの議論は私には到底受け入れることのできないものなのです。思考実験はフェアーな議論がないと成り立たず、「世界が有限か無限か」という問いにはフェアーに対処すべきなのです。