To be, or not to be- is that the question?:衣食住の中の煙草存在論

 私たちの日常生活の土台は衣食住にあり、そこに独特の存在論が生まれる。私たちと衣食住のものたちとの付き合い方の基本は「いずれでも構わない」というもの。その原則が成り立つので、着物、食べ物、住宅などは自由に選択でき、商売が成り立っている。車や衣服は何を選んでも原則構わないが、未成年には酒もたばこも禁止されている。衣食住のものたちは、私たちが自由に使える、必ず使わなければならない、使ってはならない等々に分類できる。それを、様相論理のように考える人も、行為のパターンと考える人も、判断の類型と解釈する人もいて、それは様々である。

 煙草と喫煙、禁煙も似たような日常の付き合いの中で扱われてきた。だが、「いずれでも構わない」という煙草との付き合い方が急速に変わりつつある。2020年の東京オリンピックパラリンピックに向け、厚労省受動喫煙の対策として、2003年施行の健康増進法のさらなる強化を図る。海外では公共の場を屋内全面禁煙にする国が増え、WHOは日本の対策を「世界最低レベル」と指摘。また、IOCWHOは「たばこのないオリンピック」を共同で推進。WHOの報告によれば、世界で毎年60万人が受動喫煙で死亡、厚労省研究班は国内の死亡者も年15千人と推計している。

 私のような老人には、煙草の社会的地位が昭和と平成で一変したという実感がある。その一例が大ヒットした『風立ちぬ』に頻出する煙草の描写。NPO法人日本禁煙学会が制作担当者へ送った要望書「映画『風立ちぬ』での煙草の扱いについて(要望)」で、「教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、…数え上げれば枚挙にいとまがありません」と具体的にシーンを列挙し、煙草の扱いに特段の留意を要望。制作側は、表現の自由を脅かす行為にもなりかねない、と応答。僅かな時間差で煙草の地位が一変したことを示している。タイムスパンを広げ、煙草の歴史を振り返れば、社会や人間に対してもつ煙草の地位の変化が確認できる。

 煙草はナス科のニコチアナ属の植物。その出生地を辿っていくと、新大陸に行き着く。新大陸の人々は、煙草を吸う、噛む、粉にして鼻から吸い込む、という三通りの仕方で主に宗教儀礼に使っていた。また、沈静作用、軽い興奮と刺激などの効力をもつ煙草は、粉末、薬湯、座薬、塗り薬などに形を変え、病気治療に使われていた。日本には16世紀末に鉄砲、キリスト教と共に入ってくる。江戸幕府は煙草禁止令まで出したが、効果はなく、元禄の頃には嗜好品として定着した。

 煙草は儀礼の道具から、医薬品、さらには嗜好品へと役割を変えてきた。煙草そのものが否定されることはなかったのだが、煙草の歴史の中で近年重要な役割を演じ出したのが「健康」。この言葉が、「身体の良好な状態」を指すものとして日本語に現れるのは、英語のhealthの訳語としてで、福澤諭吉の『文明論之概略』にも登場する。だが、明治時代の身体状態を表す言葉としては、「養生」、「衛生」などが一般的だった。「養生」とは「災厄から逃れ、良好な身体状態を維持するためにある行為をしない」という考え。医学、医療の知識が「消極的な養生から積極的な健康へ」と私たちの意識を変え、煙草が毒、悪を含むものと見做され出し、その地位は揺らぎ出し、それが今でも着実に進行している。

 桶と樽は明確に区別できないが、「桶は樽ではない、樽は桶ではない」という常識を後生大事に守るというのが私たちの習慣。制服の色やデザインなど、組織を代表するという意味で重要なのかも知れないが、いずれでも構わず、もっと大切のものがある筈である。にもかかわらず、人はそれにこだわり、固執する。多くの事柄について「いずれでも構わない」ものが「いずれかでなければならない」ものと考えられてきた。どんな存在にも十分な理由がある、というライップニッツの命題にその理由があるのかも知れない。反対に、「いずれかでなければならない」ものが「いずれでも構わない」ものと考えられてきたこともある。例えば、煙草。吸っても吸わなくても構わないと受容されてきたが、遂に医学的な理由が見つかり、喫煙は悪だと糾弾されている。煙草の「どちらでも構わない」存在は否定され、禁止されようとしている。

 煙草は全面的に禁止されている訳ではない。自由に楽しめるのだが、その自由を制限しようというのが昨今の常識。煙草に新効能が見つかり、善をもたらすことがわかったとすれば、私たちの衣食住の中での煙草の地位は変わるだろう。とはいえ、喫煙が「いずれでも構わない」習慣から、「吸うべきではない」禁止行為に変わることを止めるほどのことは中々想像しにくいのである。かつて喫煙を楽しんでいた私には少々寂しい気がする。